見出し画像

【我ら、海洋民族-1】 激流の多島海に残した潮気-村上海賊 (前編)

 瀬戸内海の大島(愛媛県今治市)へは、広島空港から車で訪れた。本州の尾道から四国の今治までを繋ぐ〈しまなみ海道(西瀬戸自動車道)〉は、芸予げいよ諸島に浮かぶ六つの主島を橋で渡る。地図を広げてみると気づくが、3000余りの島が浮かぶ瀬戸内海にあって、この芸予諸島はもっとも島が密集し、複雑に入り組んだエリアだ。

 大島は、その〈しまなみ海道〉の六つの島のなかで、もっとも四国に近い、面積41.89キロ平米ほどの島である。島には芸予諸島や来島くるしま海峡を見渡せる眺望に優れた山がいくつかあるが、到着して最初に向かったのがカレイ山だった。標高232mという小さな山だが、その頂上からは能島と鯛崎島がよく見える。島の周りにはまるで川かと思われるような潮の動きが見て取れる。音まで聞こえてきそうだ。

大島と鵜島との狭水道に浮かぶ島が村上武吉が住んだ城であった。
右のさらに小さな島は鯛崎島で、能島とともに城として機能していたと考えられている

 昨年の夏、広島市のマリーナからモーターボートでこの島の近くまでやってきたときのことを思い出した。ある程度のパワーを保っていないとたやすく流されてしまう。ボートに乗っていて体感した潮はそんな急流だった。

モーターボートで能島の近くを走ってみた。パワーを上げないと急流に流されてしまう
(2023年7月撮影)

 戦国時代の武将・村上武吉は、この小さな能島に建つ城を本拠地とし、芸予諸島を中心とした瀬戸内海で勢力を振るった。因島(広島県)、来島(愛媛県)の村上氏と合せ、三島村上氏さんとうむらかみうじと呼ばれた「海賊」の総領といわれている。
 「海賊」というと多くの人は、好き勝手に略奪行為を働く極悪非道の面々を思い浮かべるものだが、村上海賊衆はそうした一般的な海賊のイメージとは少々異なる。

 「ルイス・フロイスの《日本史》のなかには“海賊”という言葉がたくさん登場します。これらは日本語に翻訳されて、すべて“海賊”になっているだけで、ポルトガル語の原文では“piratas”(パイレーツ)、“cossario”(コルセア)、“ladrões”(泥棒)などと使い分けられているんです。“能島殿”を指した“日本最大の海賊”という部分は、原文では“cossario”が使われています」
 能島を望む大島の宮窪町にある〈今治市村上海賊ミュージアム〉の学芸員、松花菜摘さんがそう教えてくれた。

 ルイス・フロイスは、戦国時代にポルトガルから日本にやってきた宣教師だ。彼が書き残した《日本史》は、日本の中世史の研究における貴重な資料となっている。
 フロイスが使用したcossario(英語ではcorsair)は、一般的には“公的な認可(特許状)を得た海賊行為を行う船(私掠船)”を指す。後に村上家も天皇や将軍からの命を、通行料の徴収の根拠に挙げているが、あながち間違いではないのかもしれない。
 「村上海賊を、piratesとは英訳してしまうと、一般にイメージされる無差別に略奪行為を行う海賊を想像してしまいます。そのため私たちは、私たちは、日本独自の存在である忍者や侍が英語でもそのままNINJA、SAMURAIと呼ばれるように、海賊も“KAIZOKU”と表現して、世界に発信しているんです」(松花さん)
 村上海賊は、一般的な意味での”海賊”の枠に収めることのできない存在なのである。

大島の東海岸に面する宮窪にある「今治市 村上海賊ミュージアム」
村上海賊に関わる様々な資料が展示されている

 村上武吉は、おのおの自分勝手に略奪行為を働いていた海賊たちを秩序ある海の集団にまとめあげ、統率し、瀬戸内海において独自に航行ルールを作り、航行する商船から帆別銭ほべちせん(通行税)を徴収し、ときにはそれらの船に〈上乗り〉し、警固や水先案内人としての役割を果たし、安全な航海を保証した。
 逆にルールを無視する船に対しては容赦なく攻め立てた。
 その影響力は難所の多い芸予諸島を中心に、西は秋穂あいお(山口県)から東は塩飽しわく(香川県)にまで及んでいたという。
 また、戦国武将の毛利元就などの要請を受け、独自の海戦術をもってその力を貸した。「村上水軍」とも呼ばれる所以だが、これは近代になって海軍が自分たちの前身としての「水軍」を研究するなかで使われるようになった言葉らしい。

ミュージアムに展示されている能島村上氏の猩々しょうじょう陣羽織

 そうした「海賊」の存在には、フロイスならずとも興味を抱かれずにいられない。特に三島村上氏の総領・村上武吉には、日本の海洋文化を探っていく上で、大いなる魅力=潮気を感じるのである。

 フロイスのことを教えてくれた松花さんは、東京にある私大の史学科で日本中世史を学び、大学院で研究に勤しんできたが、彼女もまた、その過程のなかで村上海賊と武吉に魅せられたお一人である。

今治市 村上海賊ミュージアムの松花菜摘さん。
学生時代から日本中世史の研究を続けている村上海賊の“ファン”である

 「戦国時代の毛利氏に興味があって研究していたのですが、そのなかで村上海賊の存在に興味がわきました。船を自在に操って、海で活躍する村上海賊を“カッコいい”と思ったんです」(松花さん)

 ただ、松花さんが武吉に抱くイメージは、本欄が安直に抱いていた「強く、かっこいい海の男」とも違うようである。

 「強力な海賊でありながら連歌を詠み、お茶をたてたりと教養がありました。また、毛利や大友など力ある大名とも、海上警固や通行料の免除を行う代わりに領内に関所を置かせてもらうなど、win-winな関係を築きながらも、適度な距離を取り、状況を冷静に見て、どの大名に付くかを判断していました。ビジネス的なセンスもあったのだなと思います。賢かったという印象です」

ミュージアムに建立されている村上武吉像

 村上海賊に興味を抱き、おそらく魅力を感じ、それを題材にした小説家もいる。和田竜さんの「村上海賊の娘」は、2011年から2013年にかけて週刊新潮で連載され、「吉川英治文学新人賞」を受賞、単行本化されると「本屋大賞」を受賞し、累計300万部を超える大ベストセラーとなった。コミック化もされている。
 主人公は武吉の娘とされる人物をモデルにした架空の女性である。戦国時代の女性でありながら、軍船に乗り、第一次木津川口の戦いで織田の水軍と戦う。小説やコミックの中で彼女が発する行動や言葉は、当時の村上海賊衆の心意気を表しているように思える。面白い!

 海洋時代小説の旗手として知られる白石一郎さん(故人)は、それよりも25年ほど前に「海狼伝」を書いた。これは直木賞を受賞。主人公は海と船が大好きな笛太郎という男で、18歳の時に対馬から海に出て村上海賊に捕まり、長編物語の中の一時期を村上海賊とともに過ごす。これまた面白い!

 本欄が最初に村上海賊という存在に興味を持ち、松花さんと同じく「カッコいい」と感じたのは「海狼伝」との出合いの中でのことだった。村上海賊が登場するのはごく限られた章ではあるが、村上海賊は主人公の海の男としての成長に欠かせない重要な役割を持つ。

白石一郎の「海狼伝」は「海王伝」へと続く。
和田竜の「村上海賊の娘は上下巻。キャビンの棚でも取り上げたことのあるコミック版は全13巻


 「村上海賊の娘」にしても「海狼伝」にしても村上武吉は脇役である。そして物語はフィクションである。
 今回、宮窪を訪れ、松花さんのお話を聞いて知ったことの一つに、戦国時代、ましてや海のこととなると、真実はわからないことだらけ、ということだった。先述したように、江戸時代になってから書かれたものなどは、資料としての信頼性に疑問符が付くものが多いらしい。

 ここで取り上げた小説は、いずれも松花さんのような研究者たちが丹念に調べてまとめていった資料を元に、時には古い一次資料にあたり、取材をし、そのうえで小説家たちの“想像”をふんだんに加えて書かれたものなのである。
 その作業は莫大な労を要するものだろうが、とてつもなく楽しかったに違いない。さらに、私たちにしたら特別な取材や研究を労せずとも、小説を手に取れば容易に作家たちの想像した世界の中に身を置くことができる。楽しく、有り難い。

 次回の「我ら海洋民族」では、これらの小説の世界にふれながら、村上海賊が乗っていた船や、彼らの島での様子について、もう少しイメージを膨らませてみる。

※タイトルの写真:今治市村上海賊ミュージアムに展示されている村上海賊が使用していた軍船の模型。

●文責:編集部
●取材協力:今治市村上海賊ミュージアム
(愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地/TEL: 0897-74-1065)
●主な参考文献
増補改訂版「瀬戸内海の海賊〜村上武吉の戦い/」山内譲・著(新潮選書)
「海のサムライたち」「海狼伝」/白石一郎・著(文春文庫)
「村上海賊の娘」/和田竜・著(新潮社)
「ものと人間の文化史〜和船Ⅱ」/石井謙治・著(法政大学出版局)


いい記事だと思ったら、ハートマークを押して「スキ」してくれると嬉しいです。 「スキ」すると、季節のお魚イラストが釣れるかも。今日は何の魚かな?