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冒険気分は読書で済ませておくのが無難かも。 【キャビンの棚】

 ホーン岬、あるいはドレーク海峡。

 ときに40kn(時速70km)の偏西風に南極環流、絶えず生まれ続ける温帯低気圧、それらがつくる100ft(約30m)の波の壁、流れ来る氷山…。世界最大幅の海峡にして、世界最凶の海況の海峡です。

 ボート、ヨット好きでも知られる人気ホラー作家の鈴木光司さんが、そのエッセイ集『海の怪』に収めた「吠える60度線」で、わが国トップともいえる冒険セイラー白石康次郎さんの体験を、次のように小説風にまとめて紹介していました。

 これまで床だったところが側壁となり、天井となり、びっくりハウスのようにキャビンがひっくり返ってゆく。
 水の圧力を受けて船体はきしみ、各部が悲鳴を上げていた。
 水密が破られ、大量の海水が流れ込む光景ばかりが脳裏に浮かび、「もはやこれまでか」と判断力がシャットダウンしそうになる。

「海の怪」鈴木光司・著/集英社・刊

 もちろん康次郎さんがこの海から何度も生還したことは、ご存じの通り。

 本書は、そんな海で18世紀前半に起こった、英国海軍史上に残る奇譚のノンフィクションです。
 数次に及んだスペインとの植民地覇権戦争のため、密命を帯びた小艦隊の一艦〈ウェイジャー号〉は、ドレーク海峡で上述の海況に遭遇して、艦隊からはぐれます。さらに、漂着した島では搭乗員同士の権力闘争による反乱、殺人、はては飢餓からの人肉食と、副題の通り〈英国船ウェイジャー号の地獄〉が描かれます。

 なぜ、その地獄が描けたかというと、二派に分裂しながら生き残った搭乗員たちはそれぞれ別に、筏などで地獄から脱出し、奇跡的に英国まで戻ることができたからです。そして、母国では遭難や反乱の責任を巡って軍法会議が準備され、航海日記をはじめ、その証拠文献などが残されていたのです。

 著者は、それらを丹念に渉猟しょうりょうし、まるで見てきたように再構成しました。出帆前の官僚主義によるもたつき、得体の知れない病魔に蝕まれて次々に消えてゆく乗組員たちの恐怖と困惑、敵スペイン艦隊とのチェイス、嵐との闘い…。レオナルド・ディカプリオ主演の西部劇映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023年)の原作者でもある著者は、名うてのストーリーテラーなんです。

 さて、ここでは事件のあった18世紀半ば当時の事情を説明しておきましょう。まず、木造船は建造中からはや腐朽を始めるということです。シロアリの害もあり、軍艦の平均寿命は14年程度だったといいます。次に、水兵の募集はほとんど強制連行だったということ。クロノメーター(時計)はありましたが、精度は十分でなく、経度方向には数百kmも誤差が生じました。

 さらに、ウェイジャー号は発疹チフスの蔓延に見舞われますが、その原因も不明の時代です。のちには、壊血病にも悩まされるのですが、こちらの原因も対策もなかった時代です。次々と士官も水兵を失って満身創痍のまま、嵐のドレーク海峡に突入します。下はある艦長から旗艦への報告。

「わが艦の索具はすべて失われ、船首から船尾まで損傷し、乗組員は九割方が病に罹って倒れております」

 その旗艦も、

 以前は一回の当直に二〇〇人以上が配置されていたが、それが六人にまで減っていた。

 それで、ドレーク海峡の嵐と戦うなんて、結果は火を見るよりも明らか。
「むり、むり、むり」とは、「康次郎君と同じことができるだろうか?」と自問した鈴木光司さんの弁。
 続けて、「海はほどほどに楽しむのが一番と、実感するのであった」と。

 冒険気分は、本書の読書で。

「絶海」
著者:デイヴィッド・グラン
発行:早川書房
価格:2,750円(税込)

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