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憧れの島、小笠原が小笠原たる所以。 【キャビンの棚】

 古希を過ぎたオールドセーラー2人からヨットを始めた若い頃の話を聞く機会がありました。たまたま2人ともデビューは相模湾で、ディンギー(小型ヨット)からスタート。そして、はるかに眺める大島まで行くのが憧れとなり、そのためにセーリングクルーザーに転向していったそうです。

 となれば、その次か、あるいは、その次の次ぐらいには小笠原諸島が目標になるんじゃないでしょうか。日本列島から約540海里(約1,000キロ)離れた小笠原は、ヨット乗りにとって、そんな立ち位置にあります。

 その小笠原の存在は、奇跡と言っても過言ではないと評者は思っています。えっ、何が奇跡かって? この“欧米の捕鯨船で栄えた緑の島”が日本領であることです。

 本書は、江戸時代初期の〈無人島の発見〉から説き始め、探検船や捕鯨船が基地とするために欧米が先に植民したこと、国際情勢の機微により列強がすくみあう中、江戸幕府が八丈島民を入植させたこと、最終的に明治政府によって正式に「回収」されたことまでを記述しています。まさに、綱渡りでした。

 そして、もうひとつの奇跡は、小笠原が「小笠原」であることなんです。ここでは、そちらのほうをちょっと脚色して紹介したいと思います。

 江戸時代のはじめ、紀州から江戸にミカンを運ぶ船が遠州灘で真冬の大西風のために遭難し、今の母島へ漂着します。

「人はおらぬようだが、おや、なんとすばらしい島ではないか」

 彼らは逗留を余儀なくされる間に破損した船の材料で小舟をこしらえ、父島、聟島むこじまを経て、ようやく人の住む八丈島へ。そこから下田の奉行所へ向かい、顛末を報告します。

 これを受けた当時の江戸幕府がえらかったんです。緑多く、魚にぎわう未知の無人島へさっそく調査船を派遣することを決めました。幸い鎖国してまだ日も浅く、外洋をわたることのできる船も、経験のある船乗りもいた時代でした。

 その調査報告により、長崎出島のオランダ人を通じて欧州でその無人島はBONIN島として知れ渡り( のちに、日本が最初に発見した島である証拠のひとつとなるんですが)、無人島の話題は江戸っ子のあいだでも当時、持ち切りになりました。

 さて、ときは無人島発見から100年近くがたった享保年間、江戸に信州小笠原藩主の末裔を名乗る男が現れます。男が手にした巽無人島記たつみぶにんじまきなる写本には、藩主は家康公の部下として朝鮮出兵に従軍し、功を挙げるもほうび少なく、家康公は「しかるべき島山あれば見つけ次第取らすであろう」という証文を下してくれたというのです。そこで藩主が南海に船出して無人島を見つけ(ミカン船の漂着より80年前ということです)、家康公に報告したところ、小笠原島と名付け、藩主の所領として安堵されたと書かれていました。父島、母島、聟島など特徴的な島名も、この写本が初出です。

 しかし、事実関係の齟齬そごは多く、結局、この男は幕府奉行所から詐欺師と認定され、財産没収の上、関東・五街道・機内など立ち入り禁止の「重追放」に処されてしまったのです。

 それがいつのまにか、堂々たる小笠原の島々の名乗りになっているんです。そんな伝説があるのも魅力のひとつですね。

「幕末の小笠原」
著者:田中弘之
発行:中央公論社
価格:924円(税込)※現在絶版

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