きっと、そこには海がなくてはならなかったのです。 【キャビンの棚】
髪の毛を切るのに理髪店=床屋さんに行くか、美容室に行くか。特に男性の場合、好みの分かれるところかと思います。床屋は理容室などとも呼ばれます。床屋の利用者は圧倒的に男性が多いと思われますが、利用したことのない女性のために説明すると、大きな違いは顔を剃ってもらえるかどうかという点ではないでしょうか。
顔に剃刀を当てるという点で、真っ先に、志賀直哉の「剃刀」という、少しばかり猟奇じみた明治時代の小説を思い出す人、これも奇特な読書好きかもしれませんが、この「海の見える理髪店」にも一瞬、本当に一瞬、志賀直哉の「剃刀」を思い出すような箇所があります。
でも、そこはご安心ください。ここではそのような展開にはなりません。一般的に客が床屋に滞在する時間は1時間ぐらいでしょうか。小説でもその時間が静かに流れていきます。そして理髪店の主人と客との間の奇妙なバランスで成り立つ関係性。その正体が、なんとなくわかってきます。その「なんとなく」が、美しい。切なくも温かな余韻を残します。
鏡に客の背景にある海が映る床屋さん。タイトルとのどかで美しい装丁に惹かれて手にとった本ですが、特に海にまつわる話ではありませんでした。海の描写もそれほどありません。
でも、半ばこじつけかもしれませんが、読み終えて気づくのです。この静かな物語の舞台には、海が必要であったのだと。
萩原浩さんの表題作を含む6編をおさめた短編集。2016年の直木賞受賞作です。