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艇体だけではない、“セール”へのこだわり。 【We are Sailing!】

 乗り物としてヨット(セールボート)を語る際によく言われるのが「セールがエンジンです」という説明。推進力を発生させる装置という意味では、まさにセールはヨットのエンジンと言えます。では、そのエンジンを動かす燃料は……そう、風です。風という燃料を推進力に変換させる装置がセールです。

 セールはその面積が大きければ大きいほどたくさんの風(燃料)を利用することができます。ただヨットの場合、燃料の量が多すぎる(強風)場合、風の力に負けてヨットが横倒しになってしまいます。ですので、大型のセーリングクルーザーの場合は、そのフネに取り付けられる最大サイズのセール(微風~中風用)の他に、それぞれの風速において最も効率よく走れるサイズのセールを何枚も搭載して、そのときの風速に合わせて臨機応変にセールを変えて対応する方法をとっています。

 しかし、ワンデザインクラス(同じ規格のヨットで競う)である国際470級では、一つのレガッタで使用できるセールはワンセット。メインセール、ジブ、スピネーカーの三種類のセールをそれぞれ一枚しか使用できません。さらに、ワンデザインクラスのレーシングディンギーでは、クラスルールによって使用する道具の規格が厳格に定められています。ヤマハが開発している470級のハル(艇体)にもマストにもラダー(舵板)にも、そしてセールにもその大きさや形状について規格があり、それを逸脱したものはレースで使用することができません。同じ道具を使うことでセーラーの力量だけで勝負する、というのがワンデザインクラスの哲学なのです。

風に合わせてカーブを作る。470級はこれら3枚のセールを使って帆走する。
左から追い風の時だけに使用するスピネーカー、常時使用するジブ、そしてメインセール
(撮影:松本和久)

 では、なぜ世界大会で活躍する選手たちは、本来同性能であるはずの道具の開発に躍起になるのでしょう? その背景にあるのがアローワンスです。艇体やマストなどが工業製品である以上、できあがった製品にはどうしてもバラつきが生じます。クラスルールに規定されている数値には、そうしたバラつきを想定した許容範囲、つまりアローワンスが設定されているのです。クラスルールの規定では、長さにおいては±○mm、重さにおいては±○gといった具合に幅を持たせた規格になっています。そのアローワンスを逆手にとって、少しでも有利な道具を開発するために選手をはじめ、ボートビルダー、セールメーカーなどが研究/開発に血道を上げているのです。

 艇体開発を例に取れば、そのアローワンスの中で微妙に形状を変えてアドバンテージを得ようとしているわけです。しかし、絶対的に優れた形状というものは現実的には存在しません。要求される艇体(ハル)の形は、風速や波の高さなどによって変化するため、全てのコンディションで絶対的な性能を求めることは不可能なのです。アローワンスの中で形状を変える作業は、ほとんどの場合はトレードオフが念頭にあります。例えば波のある海面でアドバンテージを発揮する形状は、波のない海面ではディスアドバンテージを背負わされるという関係です。ハルにおいてもセールにおいても、アローワンス内で数値を変化させることは概ねトレードオフの範疇にあります。


セールは最も大切なギアのひとつ

 さて本題です。セーリングに使われるギアの開発の中で選手たちが最も力を注いでいるのがセールです。開発に携わることのない学生セーラーであっても、レースでどのセールを使うかは最大の関心事といっていいでしょう。セーラーたちはどうしてセールにこだわるのでしょう?「セールはヨットのエンジンだから」。そう、推進力を発生させる重要なギアだから。それは半分だけ当たっています。

 残りの半分の理由は、セールはクラスルールの規制が最も緩いギアだから。セールもハル同様に各部の長さや形状が厳格に規定されていますが、それは二次元の数値に限定されているのです。簡単に言えば、セールに真横から光を当てて生じる影、つまり投影された形状や面積は厳密に規定されています。

 一方で、セールの性能や特性は専ら翼断面、つまりセールを真上から見た(風をはらんだ)ときの形状に依存します。ところが多くのワンデザインクラスのクラスルールでは、この翼断面の形状(曲線)については何ら規定がされていないのです。こと、この部分においてセールは、アローワンス(許容範囲)どころではない全く自由なデザインが可能となっているのです! トップセーラーやセールメーカーが、そのクリエイティビティを発揮しようとセール開発に惜しみなくリソースを注ぎ込む理由はそこにあります。

10月に磯崎と関のペアは新たなセールのセールを開発するため
セールメーカーとともにテストを繰り返した(撮影:ヤマハセーリングチーム・コーチ/小泉颯作)

 とはいえ、セールのデザインも世界中のセールメーカーによって研究し尽くされてきた歴史があり、有効な翼断面の形状もある程度の範囲に収まっており、他のギアと同様にデザインの変更はトレードオフの関係となっているのが現状です。

 ざっくり言ってしまえば、セールカーブの曲線が強いほどセールはパワーを発揮し、波のある海面でも艇速が落ちにくくなり、反対にカーブの曲線が緩やかなほど風が流れやすくなって強風でのコントロールがしやすくなるというのがセールカーブにおける基本的な理論です。

 470級のセールはダクロンという化学繊維(ポリエステル素材)によって織られた織物であることがクラスルールで規定されています。ファブリックである以上、テンションをかけることで形状が変化します。その特性を利用して、セーラーは各種コントロールロープを引いたり緩めたりすることで、前述のセールカーブ(翼断面)をその日のコンディションに合わせて変化させることができます。この知見とスキルこそがセーラーとしての実力の一つだといえます。

 こうしてコントロールロープでセールカーブを変化させるだけでは望むセールカーブの形状が得られないときに、セーラーは新しいセールの開発の必要性を感じるという順序になります。

裁断されたいくつものクロスの組み合わせで形を作る

 では、実際のセールメーキングの現場では、どのような課程で新しいセールが開発されているのでしょう。各セールメーカーでは、セーラーの要望(風域、乗員の体格など)に合わせたセールカーブを想定し、コンピューター上で3Dのセールを作り上げ、それに合わせた形で実際のセールを製作することになります。しかし、470級のクラスルールではセールの素材はダクロンの織物であることが規定されています。織物は平面(二次元)であるため、いくつかのパネルを縫い合わせることで三次元のセールカーブを作り出すことになります。縫い合わせる部分(シーム)を曲線(シェイプ)にすることで、二次元のパネルから三次元のセールを作ることができるのです。

 この場合、パネルの枚数を増やせば増やすほどコンピュータ上で作られた3Dの形状に近い滑らかなカーブのセールになります。90年代まで主流だったクロスカットという製法では、470級のメインセールは7~8枚のパネルで構成されていましたが、その後開発されたラジアルカットという製法では格段にパネル数が増え、現在は25~28枚ほどのパネルで構成されています。

 パネル数が増えれば増えるほどシームのシェイプは直線に近い微妙な曲線となり、それらを正確に切り出して縫い合わせていくという作業は経験に裏打ちされた高い技術力が必要となります。
 いくらデザイナーが完璧な曲線をデザインしても、それを製品化して再現するのは各セールメーカーのロフトスタッフの力量なのです。

 ワンデザインクラスにおいてセールメーキングは最も自由な裁量が許された分野であり、そこには多くのリソースが惜しみなく注ぎ込まれている現場であるということが理解していただけたでしょうか? 機会があれば、実際にセールメーカーの現場を紹介してみたいと思います。

文:松本和久(まつもと・かずひさ)
ヨット専門誌「ヨッティング」編集部を経て、1995年にフリーランスの写真記者として独立。ヨットレースだけでなく、漁業や農業など一次産業の取材も得意とする。本欄「We are Sailing」のメインライター。学生時代は470級のクルー、ヘルムスマンの両ポジションで活躍。卒業後に国体(山梨)出場の経験も持つ。1963年生まれ。愛知県出身。


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