今さらだけど、海は男だけのものではない、という話。 【Column- 潮気、のようなもの。 】
“海になってしまいたい”という女性
最近、ある女性のフェイスブックの投稿を眺めるのが楽しみの一つになっている。小学生のときからヨットを始めた彼女は、高校時代にヨットレースでずば抜けた成績を収めて注目され、高校卒業後は東京オリンピックへの出場を目指し、社会人セーラーとして世界を舞台に頑張っていた。私は彼女のそんな姿を約4年間、仕事で追いかけていたのだった。
彼女の五輪出場という目標には残念ながら届かなかったが、いまは海での活動の幅を広げ、クルーザーレースなども楽しんでいる様子がフェイスブックから伺える。
そして彼女のヨットを楽しむ写真にまじって、目に見えて増えてきたのが「釣り」の写真だ。様々な釣りを楽しんでいる。ヨットレースのサポートボートにフィッシングロッドを持ち込んでクサフグを釣り上げている写真もあった。また、ある日は、暗い海の上で定置網の網揚げに参加している写真があった。なぜ定置網なのかわからぬが、とても楽しそうだった。そして、言葉は正確ではないが「もうそのまま海になりたい」といった内容の彼女のコメントを見かけた。
ヨットレースに関わっている間、かなりのシーマンシップを蓄えてきたであろう彼女が、それこそ時を惜しむように全身で海とフネを楽しんでいる。その姿は紛う無き「海の女」だ。とても好ましく、頼もしい、と思えた。
海外に目を向けるとよく「海の女」を見かける。特に印象深かったのは北欧のノルウェーとスウェーデンでのマリンレジャーシーンにおける女性の多さだった。足代わりのインフレータブルボートに子どもたちを乗せて港内を忙しく走り回る女性の船長。クルーザータイプのボートに女性だけで集まってのんびりとクルージングを楽しむグループ。ストックホルムの港で、重たそうな三つ編みの舫いロープを手慣れた様子で扱う観光船のクルー。どの女性も楽しそうで、颯爽としていて、独立した「海の女」たちだった。「さすがはバイキングの末裔」というのは裏付けのない、無知な私の感想である。
海と船から遠ざけられてきた女性
こうして改めて「海の女」という、女性であることを特別視したかのような言葉を連発していると、差別的だと不快に思われる方がいるかもしれないが、事実として、日本では有史以来、女性が船に乗ることは極めて希であった。
柳田国男の「海村生活の研究」など、その背景を考察する書籍や論文などをいくつか拾い読みしたことがあるが、もっともらしい理由をいくつか知った。
そのひとつが、船には“女性の神”が宿っているから、または船は“女性”だから、女性を乗せると船や女神が嫉妬して災いをもたらす、というものだ。日本続紀といった古い記録では、船が嵐に遭ったとき、女性を海に放り込んだら嵐が収まったなんていう、まことに恐ろしい話も残っている。
もう一つの理由は「女性は穢れた存在である」という、元も子もない理由。この最大限とも思える差別的価値観は、残念ながら日本だけのものではなく、古代から世界に存在していた。たぶん。なにしろ世界で最も数多く出版されている書物、キリスト教の聖書(旧約聖書)にもそのようなことが繰り返し記されている。人が影響を受けないわけがない。
また、物理的な理由もあった。
わかりやすい例では、日本の海上自衛隊の潜水艦に正式な女性の乗組員が誕生したのは、なんとつい昨年のこと、2020年になってからである。ジェンダーフリーの時代にいったいなぜ?と思うだろう。
私は乗ったことがないので知る由もなかったが、潜水艦の居住スペースはとても狭く、トイレひとつとっても女性専用の空間を確保するのが困難だったというのがその理由らしい。潜水艦の存在意義を考えれば、納得できる話ではある。
潜水艦以外でも同じ理由で女性の乗員を乗せられない船はあったであろう。
かくして女性は、長らく船から遠ざけられてきた。
女性は船長に向いているかもしれない
私の場合、「海の女」で真っ先に思い浮かべるのは、リンダ・グリーンロウ。彼女は米国東海岸・マサチューセッツ州グロスターを基地とするマグロ延縄漁船の船長だった。ジョージ・クルーニーの主演で映画化された「パーフェクト・ストーム」(原作はセバスチャン・ユンガーによるノンフィクション)に出てくる“リンダ”のモデルである。
リンダ船長の著書「わたしは女 わたしは船長」は、グランドバンクス沖の約1ヶ月にわたるメカジキ漁の記録を著したものだ。この著書を通してもっとも共感したのは、リンダ船長の、漁と船、海という自然に向き合う上での強固な信念だ。
『漁で一番スリルがあるのは魚をとることだが、船長にとっての大仕事は、じつは乗組員の注意を漁に集中させることと、船を壊さずに無事に港へ戻ってくることなのだ』と言い、『アンドレア・ゲイル号もろとも海に消えた六人の男たちや、「パーフェクト・ストーム」より小規模な嵐で亡くなった多くの漁師たちへの思いを傷つけるつもりはないが、〜 (略)〜漁というものはそもそも危険な仕事であって、悲劇はしばしば天候とは無関係に起こっている。でもわたし自身のストーリーに悲劇は起こらない』と言いきる。
( ※筆者注:アンドレア・ゲイル号はパーフェクト・ストームで遭難した漁船)
また、彼女はアメリカでも珍しい女性船長であることを自覚はしているが、そのことに対して肩肘張るようなところがない。そして、マグロ延縄漁船の船長として、船長として出漁してきた日々の中で、なぜこの1ヶ月間に関しての記録を著した理由については、次のように語っている。
『乗組員がよかったからだ。魅力たっぷりのこの五人は海の男の典型で、一人ひとりが本の主人公になれるほどのドラマを持っている』。
「海の女」は「海の男」を大いに信頼していたのである。もちろんこの本に出てくる「海の男」たちは「海の女」を信頼している。
「わたしは女 わたしは船長」
原書房刊/リンダ・グリーンロウ著、三谷眸 訳
原題:The Hungry Ocean: A Swordboat Captain's Journey
※写真は帯も含め日本での初版発行時(2002年)のもの。
信頼すべきクルーや船長に男も女もない
白状するが、私はボートから落水したことがある。妻と二人でボートに乗っていたときのことだが、たまたま無人だったマリーナの桟橋に着岸させようと自身で操船しながら、舫いロープを持って桟橋に飛び移ったつもりが、届かず、真冬の海にロープを手にしたまま落ちたのだ。ああ、恥ずかしい。
海水を大量に含んだ衣類を着たまま必死に桟橋に這い上がろうとし、そして、それができずにもがく私の姿を、ボートにひとり残された妻は(笑いながらか、心配そうにかは知らぬが)桟橋から少し離れたところで眺めていたが、ほどなくすると桟橋に捕まってもがく私からしっかりと距離をとって、一人でボートを操り桟橋に寄せ、誰かに指示されたわけでもなく、カディ(小型ボートの船倉)から取り出したボートフックを使って、いともたやすく着岸させた。
そして、しっかりとエンジンを止めてから「さあどうぞ。ボートに這い上がってね」と私に指示を出したのである。普段は“お客様然”としてボートに同乗していた妻が、である。
それでも海水を吸った真冬の重装備を身につけた私は船に乗ることができず、けっきょく私は、船外機のプレート部分に脚をかけ、妻に頼んで船外機をチルトアップしてもらうことでようやくボートに乗り上がることができたのであった。※緊急措置であり、船外機の正しい使い方ではありません。
このときの気恥ずかしさを思い出すたびに考えることが別にある。それは、海におけるわが妻の存在の頼もしさであり、そしてボートには、なるべく信頼すべき仲間と乗るべきである、ということだ。それまでボートに同乗するクルーとして、妻のシーマンシップに信頼を置いたことは一度もなかったが、もしもこの先、万が一にも私が荒れた海に落ちたとき、命を賭して私を救おうとしてくれる存在は、この女性をおいて他にいないのではないか、と思っちゃったりするのである。
もちろんそれだけが理由ではないが、そんなことを機に、妻には「海の女」でいて欲しいと、ことさら願うようになったわけだ。
さて、冒頭で紹介した海好きの “彼女”とは「いずれいっしょにボートで釣りに行こう」と口約束をしている。そのときはぜひとも彼女の仕切りでお願いしたい。信頼できて、「海になりたい」とまで口にする海好きの船長との釣りは、とても楽しくなるはずだ。
※本の紹介以外の写真はすべてイメージです。
文と写真:田尻 鉄男(たじり てつお)
学生時代に外洋ヨットに出会い、本格的に海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海に関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。東京生まれ。