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ある時代、救世主となった海の男。 【キャビンの棚】

 コロナがほぼ収束して、世界規模での「日本ブーム」が再開したようです。2023年の訪日外国人は2500万人。ピークだったコロナ直前2019年の3200万人に迫る勢いです。中国からの観光客が当時よりも減っていることを考えると、実質上、ブームの輪はさらに世界に広がったと言えるでしょう。

 日本ってそんなにスゴイ国なんだ(笑)─、どこかのCM風に言えば、このろくでもない、すばらしきニッポンというわけです。

 このところ自然科学分野で日本人のノーベル受賞者が相次いでいるのも同胞として頼もしい限りです。もちろん、日本人が突然”偉く”なったわけではないでしょう。たとえば、第1回(1901年-明治34年)の「生理学・医学賞」は、今年7月から新千円札の顔になる北里柴三郎に(も)与えられるべきだったという話をご存じですか。実際の受賞者はドイツ人でしたが、その受賞研究を指導的な立場で共同研究していたのが北里でした。ノーベル財団側に誤解があったようです。それにしても、日本ではその賞金の所得税さえ国法で免除されるプレミアな賞の、その第1回から日本人は”活躍”していたわけです。

 出だしから針路迷走が過ぎました。今回、キャビンの棚に並べたいのは、井伏鱒二が1938(昭和13)年に直木賞を受賞した本作です。もちろんポイントは井伏ではなくジョン万次郎の行状のほうですが、本書も、児童書を主力とする版元が、新カナ遣いにし、一部の漢字をカナ開きにしただけで、総ルビを添え、多くの注釈も付けて、昭和初期の文章の雰囲気を残したままの編集で、とてもいい味わいなんです。なにより短いのがいい(笑)。

 万次郎が何をした人なのか、ここで改めて述べるまでもないでしょう。少なくとも、われらボート乗りは理屈抜きで万次郎に親近感を抱いているはずです。下の引用は、帰国後の万次郎を事情聴取した薩摩藩による幕府長崎奉行への届書です。江戸時代の公文書ですので著作権もありませんから、本書から全文孫引きします。天保12年1月(新暦1841年1月、丑年)の遭難から、嘉永4年1月(同1851年2月、亥年)の帰国までの概要となります。「候文」であり、あまりうまくまとまった文とは言えないのですが、まあ、ちょっとした遊び心で読んでみてください。

琉球の内、マブニマギリへ当正月三日、小船より見馴れざるていの者三人漂着いたし役々のもの差し立て相尋ね候ところ、土佐高岡郡宇佐浦、伝蔵、同人弟五右衛門、同国中の浜万次郎外に右伝蔵弟重助、並びに同浦寅右衛門五人乗組み、去る丑正月、漁業のため出帆いたし、難風に会ひ、辰の方無人島へ漂着いたし、鳥類など食ひ存命まかり候ところ、同六月三日ころ異国船一艘通船いたし候につき、招き寄せ候ところ、亜米利加鯨船の由を手振りをもって相通じ候につき、助けてくれ候やう頼み入れ、五人乗船し、同十月、西洋の内オーホー国へ着船し船頭の知人の方へ相頼み、万次郎儀は本国へ連れ越すべき旨申し聞け、同十一月同所出帆、翌年四月、北亜米利加へ着船、同所にて数年を経、また同地より出帆し、オーホー国へ罷り越し候。ともに賃取り稼ぎをなし罷り在り渡らふ内、亜米利加船、清国へ渡る由を承り、帰国いたしたきにつき、日本へ送り届けてくれ候やう申入れ候ところ、いまだ渡海ならざる由にて相断り候故、伝馬を買受け便船いたすべく候間、日本の地と見受け候はば卸してくれ候やう頼み入れ、右重助は五年前病死いたし、寅右衛門は罷り残りたく申すに任せ残しおき、去年十一月同処出帆、当正月二日、洋中より琉球国を見かけ伝馬相卸し候ところ、風波つよく着船なり難く、山かげに乗り寄せ翌日上陸いたし、本船は直ちに戌亥へ乗り行き候段申し出で候。尤も本船より連れ渡し相卸し候はば、相断るべき儀に候へども、伝馬より上陸いたしにつき致しかたこれなく、宗門の儀は相糺し候ところ、邪宗など相学ばず候段申し出で候につき、人家を明け置き介抱し、このたび送り越し候につき、なほまた当地において相尋ね候ところ、前条の通り、いづれも不審のかどこれなく、仍って警固の者相添へ送り出すべき旨、長崎奉行へ委曲申し達し候。此段御届けに及び候。以上。
九月十一日

 帰国後の万次郎は、その英語力と知見を買われ ──、いや、もともと潜在的な俊秀であり胆力もあったのでしょう、助けた捕鯨船の船長が惚れ込んで養子にして教育を与えたほどですから── 土佐藩で士分に取り立てられて藩校教授、のちには幕府から招聘され旗本身分を与えられます。軍艦教授所教授や咸臨丸の事実上の副長など大出世を遂げたのも、ご存じの通りです。

 しかし、思えば万次郎が帰国したのが、ペリーが黒船で来航する直前。国難に当たって、あらかじめ準備されていたようなタイミングではありませんか。万次郎個人の大栄達もさることながら、わが国にとって、まさに天祐、あるいは神風たる存在だったのではないでしょうか。

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
(明治天皇御製)

「ジョン万次郎漂流記」
著者:井伏鱒二
発行:偕成社文庫
価格:880円(税込)

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