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アジアの水都・バンコクで日本の“大航海時代”を回想する 【Column- 潮気、のようなもの】

 各国の入国規制が緩和され、非常事態宣言など厳しい感染防止対策を取っていたタイも、ほぼ平常に旅ができるようになった。以前、この国を旅した楽しい記憶がよみがえり、また行ってみたいと、思いが募る。
 この国と日本とは、海で繋がっている。

 タイの首都バンコクはチャオプラヤ川の河口に位置している。この川は、かつてはメナム川と称されたが、メナムはもともと川を意味するタイ語。これは外国人による「メナム・チャオプラヤ」の誤訳が世界に広まってしまったもので、いまではほとんどの地図が「チャオプラヤ川」に修正されていると聞いた。そのチャオプラヤ川のデルタ地帯がタイ独特の稲作文化を生み出し、また、水都としての顔を持たせたのであった。
 初めてバンコクに訪れたとき、チャオプラヤ・デルタの西方に位置するダムヌンサドゥアックの水上マーケットを訪れた。ここは、いわゆる「ふつうに」楽しい。元来、タイは水上交通の要所で住宅やマーケットも水の上に多くあった。政府は文化保護と観光誘致を目的に水上マーケットを復活させた。ダムヌンサドゥアックはその代表的なマーケットであり、有数の観光名所となっているのだ。
 観光バスから降りて、タイ独特の推進システム「ロングテール」(汎用エンジンを使用したプロペラ軸が長い推進器)を有した細長いボートに乗り込む。そして、けたたましい爆音を立てて両岸を家々が立ち並ぶ狭い水路を突っ走る。スリリングだ。マナーという点でどうかと思うが、自分で操船したわけではないので、お許し願いたい。
 マーケットに到着すると、手こぎの小舟に乗り換えて水上に面した土産物屋を巡る。南国の果物を満載にした小舟からドリアンやマンゴーを買って、手をべとべとにしながら頬張る体験も楽しい。
 先述したように、タイに残るほとんどの水上マーケットは観光地。決してタイ人の生活に密着したものとはいえないかもしれないが、それでも「水都」の原風景に思いを至らせるのに充分な雰囲気を放っている。

ロングテールのボートで行く、ダムヌンサドゥアックの水上マーケット
「水の都」とよばれた所以がイメージできる

 バンコクに戻り、チャオプラヤ川のほとりに立つ。ボートが行き交う川を挟んだ対岸には、三島由紀夫の小説で多くの日本人が知るところとなる暁の寺「ワット・アルン」の仏塔が見える。
 実は16世紀から17世紀の初頭にかけて、この川を多くの日本人が通っていった。タイと日本で知られた代表的な人物が山田仁左衛門長政、つまり山田長政だろう。
 山田長政は1590年ごろに駿府(現在の静岡県)に生まれた。20代でタイに渡って、アユタヤ王朝の傭兵部隊に加わった。その武勲が認められたことでチャオプラヤ川を通行する船から税を徴収する権利に加え、アユタヤ王朝でかなり高位の職を与えられている。タイで死没したために日本には山田長政の記録はほとんど無く、いま語り継がれている山田長政の活躍はタイに残る記録と、小説などの創作によるものが多い。
 「海に囲まれながら日本は、海を防壁としか考えない国家となってしまった」と嘆いた作家の故・白石一郎は、鎖国以前の日本で海を舞台に活躍した人々を主人公にした小説を精力的に著した。山田長政を主人公とした「風雲児」もそのひとつ。「風雲児」の中の山田長政は、故郷の駿府から幼なじみとともに荒波を乗り越えて長崎に渡り、長崎の御朱印船の船主・荒木宗太郎と出会い、台湾へ。さらに数年後、日本に帰ることなく台湾からシャムの国へと渡った。
 長政がシャムに到着したシーンでは、チャオプラヤの河口にはもちろん現在の大都市「バンコク」の姿はなく、どこが河口かもわかりにくい、ただのジャングルだったと著されている。朱印船はその河口から約100キロも離れたアユタヤまで、風がなければ櫓を漕いで遡った。
 そして山田長政がアユタヤに到着したときには、すでに日本人が1500人規模の町をつくっていた。住民の多くは、関ヶ原の戦いで主君を失った浪人たちとその家族だったという。実戦経験が豊富で勇猛な日本の武士たちは、当時ビルマの侵攻に悩まされていたアユタヤ王朝に傭兵として重宝されていたのだ。その後も豊臣家の滅亡を機にシャムに渡った浪人がいて、最盛期には3000人もの日本人がアユタヤで暮らしていたとされる。

アユタヤ王朝時代の遺跡も有数の観光地。かつてこの地で多くの日本人が傭兵として雇われていた

 この時代、タイに限らず日本から多くの者が新たな生活を夢見て、また財を求めてベトナムなどアジアの国々へ航海していたのだ。当時は造船技術にも長け、例えば荒木宗太郎の朱印船は和洋折衷を施した独特の構造を持っていたという。
 バンコクのチャオプラヤ川の流れを見て、またそのはるか上流のアユタヤの遺跡に立つと、大海原を渡り、異国の文化の中で生き、その地に散っていった同胞の姿が頭の中であざやかに蘇る。それは西洋とはまったく異なる日本の「大航海時代」の姿でもある。
 日本は海洋国家であり、我々は海洋民族の末裔であることをタイ王国とチャオプラヤ川は思い起こさせてくれたのであった。

※タイトルの写真:バンコクを蛇行を描いて流れるチャオプラヤ川。中世には多くの日本人がこの川を遡りアユタヤを目指した。

文と写真:田尻鉄男(たじり てつお)
学生時代に外洋ヨットに出会い、海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海に関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。

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