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物語の面白さだけでなく、海言葉に興味津々。 【キャビンの棚】

 ボートやヨットのキャビンの棚というやつにはさまざまな物が押し込まれています。予備に取りおいておいたカッパや長靴、サイズ違いを買って捨てられなかったグランドパッキン、もはやどこのかわからないボルト・ナット・ヒューズ、中身が半分残ったインスタントコーヒーの瓶、エトセトラ。何が出てくるか怖くてなかなか片づけられなかった中から、いつか読もうと積み込んで忘れてしまったというテイで、今回はかなり古い本を紹介します。

 現代日本における国際海洋冒険小説家の嚆矢こうしにして第一人者である著者の、なんと『マラッカ海峡』と同時に出版されたデビュー作のもう一方である『喜望峰』です。舞台は1970年代の南アフリカ。悪名高きアパルトヘイトに拘泥し、黒人解放運動への弾圧を続けていた南ア共和国の情報組織の秘密作戦に、日本の貨物船が巻き込まれるという骨太な諜報謀略小説でもあります。

 いまだポルトガルの植民地であった隣国モザンヴィックの港町ローレンソ・マルケスに停泊していた白雲丸に突如、臨時の積荷と予定外のケープタウン行きが強権的に発注されるところから幕開けです。重そうな積荷の木箱はいわくありげで、しかも、なぜか船積指示書が紛失してしまい、書類上は密輸品となってしまいました。出航後、甲板長がこっそり内容を検めるとなんと空なのです。なにかの陰謀が進行していて、白雲丸はすでにその渦中に放り込まれていました。サイクロンが迫る中、主人公の一等航海士・稲村は……。というストーリーは、ミステリーの要素もあり、当時の情勢もふんだんに描写されていて終盤のどんでん返しまで一気に読めます。

 そして、われら海好き、ボート乗りが冒頭から引き込まれるのは、その用語使いです。著者は鳥羽商船高専を出た外航船の士官だったのです。一部、抜き出してみましょう。すべて漢字語にカタカナのルビがふられています(※表記は作中のママ)。

居住区(ハウス) 甲板(デツキ) 船艙(ハツチ) 縁板(ブルワーク) 運航予定(ローテーション) 託送貨物(トランジットカーゴ) 定期航路貨物船(ライナー・カーゴボート) 甲板長(ボースン) 一等航海士(チヨフサー) 艙口(ハツチ) 固縛(ラツシング) 船長(キヤプテン) 船首楼(ホツクスル) 雑布(ウエス) 艙内(ダンブル) 甲板員(セーラー) 事務長(パーサー) 船積指図書(シツピングオーダー) 代理店(エイジエント) 積荷目録(マニフエスト) 点検(サーチ) 海里(マイル)

 キリがないですね。
 ところで、これらはすべて英語かというと、そうでもあるし、そうでもない。 

 たとえば、小型ボート乗りにも身近な雑布の「ウエス」ですと、英語だと一般的には「rag(ラグ)」が使われています。用途を明確にするならワイピング・ラグなどと言えば英米人にも通用するでしょう。では、なぜウエスかというと、幕末明治の外国船の船員が、日本に豊富にあった綿布のぼろを指して「waste(ウエイスト)」と呼んでいたのを訛って覚えたようです。

 甲板長の「ボースン」は、正式の英語スペルだと「boat swain」ですが、これは日本人が訛ったのではなく、彼らがはしょって「bo’s’n(ボースン)」と呼んでいたのを取り入れたものです。

 同様に「船首楼」は英語で「fore castle」なんですが、ネイティブでも「フォアキャスル」ではなく我らと同じく「フォウクスル」と発音するようです(『喜望峰』で「ホツクスル」とルビ)。

 一等航海士「チョフサー」は「チョッサー」とも言います。これは日本人が「chief officer(チーフオフィサー)」をはしょったようです。

 ほかに、レッコとかステベとかナンバンとか、海関係には日本語だか英語だかわからない仲間言葉がいろいろありますね。時化のひまつぶしに調べてみるのも一興かも。

 なお、本書は1977年にベストセラーズから刊行されました。その後、徳間書店と集英社から文庫本が出され、ともに電子版として復刻されています。

「喜望峰」電子版
著者:谷恒生
発行:徳間書店、集英社
価格:605円(税込)
※写真は徳間文庫(1990年初版)

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