複雑なヨットレースの理解は戦術にも繋がります 【We are Sailing!】
いよいよパリ大会の470級の代表を決する選考レースが始まりました。最初は2月26日から開催されている世界選手権。ヤマハセーリングチームは5レースを実施した時点(2月28日)で、磯崎哲也と関友里恵のペアが首位に立つ好発進を見せました。髙山大智と盛田冬華も頑張っています。
さて、スペインのパルマへと旅立つ数日前、彼らの活動ベースである葉山では、髙山と盛田のペアがJSAF(日本セーリング連盟)から指導者を招き、ヨットレースのルールを軸とした特別トレーニングに取り組みました。ヨットレースに馴染みの無い人間から見ると「世界を目指すようなレベルの選手が、いまさらルール?」と思ってしまいそうですが、実はヨットレースにおけるルールの位置づけは、他の競技スポーツのそれとは全く異なる位相にあるのです。今回はそんなヨットレースのルールについて見ていくことにしましょう。ちょっと長いですが、これでも基本中の基本の内容です。
ヨットレースのルールのベースとなっているのは、通常の船舶に適用される「海上衝突予防法」です。ヨットがそのままの針路を維持した場合、他のヨットと衝突してしまうというケースにおいて、どちらのヨットに「航路権」があるかを規定したもの。ヨットレースの場合、この航路権を有したヨットを「権利艇」、航路権を持たないヨットを「非権利艇」とし、この両者の針路が交差する場合、権利艇は針路を保持し、非権利艇は権利艇の針路を妨害することなくそれを避けなければなりません。あくまでも衝突予防を目的としたルールなので、権利艇といっても好き勝手に走っていいわけではありません。1艇×1艇で競い合うマッチレースや、数艇同士で競い合うチームレースの場合は、その付則によって権利艇が非権利艇を妨害するような針路変更が認められることもありますが、通常行われる470級の大会のように、数十艇が一斉に順位を競うフリートレースにおいては、相手を故意に妨害するような動きは原則として禁止されています。
ヨットのルールの3原則
レース海面における複数のヨットの位置関係は、全て以下に述べる3つのシチュエーションに集約されます。
以上、3つの権利関係をヨットレースのルールにおける「三原則」と読んでいます。これ以外にもスタートやマーク付近で適用されるルールがありますが、この三原則さえ知っていれば、それなりにヨットレースを楽しむことができるくらい、ヨットレースの基本のルールと言えるでしょう。
ヨットレースのルールの特殊性は、その運用にある
ここまで読まれても、他のスポーツのルールとは位相が異なるというほどヨットレースのルールが特別という印象は受けないと思います。ヨットレースのルールの特殊性は、ルールそのものよりもその運用にあるのです。
サッカーや野球などの球技、水泳や陸上などのレース競技、柔道やボクシングなどの格闘技など、ヨットレース以外のおよそ全ての競技スポーツでは、競技が行われているフィールドに審判がいて、ルール違反が行われた場合はその都度審判が指摘して判定を下すというシステムが採用されています。
もちろんヨットレースにおいてもレース海面に審判を乗せた審判艇が配置されていますが、面積で比較するとサッカーフィールドの100数十倍もあるレース海面に、審判艇は2~3艇あるだけ。レース艇(40~60艇)同士の同時多発的に発生する交錯の全てを見ることは不可能です。
ではどうするのか?
航路権を持っているのに針路を妨害されたと感じた選手は、自分を妨害した相手艇に対し「プロテスト(抗議する)!」と声を掛けます。声を掛けられた艇は、相手の航路権を侵害したという自覚があればその場でペナルティー(720度回転する)を履行することでレースに復帰することができます。では「プロテスト!」と声を掛けられた艇が「自分は相手を妨害していない」とか「航路権があるのは自分で、避けるべきは相手艇だ」と考えている場合はどうなるのでしょう? その場合はレースが終わってハーバーに戻ってから「裁判」が行われることになります。その裁判のことをヨットレースでは「審問」と呼ばれ、当事者である2艇の艇長がそれぞれ審判(ジュリー)の前で自分に正当性があることを主張するのです。
レース中に「プロテスト!」と抗議の意志を示したにもかかわらず相手艇がペナルティーを履行しなかった場合、その後も抗議する意志が変わらない選手はプロテスト委員会に抗議書を提出します。抗議書には相手艇が自艇を妨害した状況を図をまじえて客観的に記述します。場合によってはその現場を目撃した第三者を証人として証言を依頼するなど、実際の裁判さながらの攻防が行われます。
審判(ジュリー)は審問において双方の意見を聞き、より合理的で客観的な主張をしている選手がどちらなのかを判断し、最終的なジャッジを下します。ここで抗議艇の主張通り被抗議艇の違反が認定されれば、被抗議艇は失格(DSQ)となり最大失点(出場艇数+1点)が加算されることになります。反対に被抗議艇に違反がなかったと認定された場合は「却下」となって双方の成績は着順どおりとなります。
いかがでしょう? この審問システムにこそヨットレースのルール運用の特殊性があるのです。つまり、ルールそのものを熟知していることはもちろん、抗議書の書き方から審問での受け答えまで、審問で勝利を勝ち取るためのスキルが必要なのです。国際レースとなると、これら全てが英語で行われるため、選手に要求されるルールへの理解はより高度なものとなります。
よって世界の頂点を目指すようなトップチームだからこそ、定期的に審判の資格を有する人間のレクチャーを受け、どういう行為が違反と見なされるのかその境界線を見極めることはもちろん、審判からはどのように見られているかまで、多角的なルールへの理解を深める必要があるのです。
しかしながら、一つのルールの適用にも様々なケースがあり、とても複雑で確実に理解することはかなり困難です。また、先にも言ったとおり、ヨットレースはすべてのシーンを審判が見ていることは不可能なことが多いので「あの選手との間でこういうケースがあって不利を被った。彼らにペナルティを科すべきである」というように選手自身が申告せねばなりません。
そうしたこともあって、レース海上では、選手間でルールを利用しての駆け引きが当たり前のように行われています。つまりヨットレースのルールを熟知することは、戦術の一部でもあるのです。
先に、フリートレースではマッチレースのように航路権を振り回して相手を攻撃することは違反となると述べましたが、航路権を考えながら自艇のポジショニングを取ることでレースの展開を有利にすることは戦術として認められています。ルールと戦術を駆使することで、まるで囲碁や将棋のように相手を追い込んでいくようなレース展開を武器とするようなセーラーも存在します。ヨットレースが「洋上のチェス」と呼ばれる所以です。
読者の中には特定の競技スポーツに心血を注いで打ち込んだ人も少なくないと思います。そんな人に質問です。
「貴方はその当該競技のルールブックを読んだことがありますか?」
まあ中には読んだことがあるという人もいるかもしれませんが、おそらくルールブックそのものを見たこともないという人がほとんどではないでしょうか? 一般的な競技スポーツでは、試合が始まってしまえば目の前にいる審判が全てその場でジャッジしてくれるので、ルールブックを熟読してまでルールの細部を理解していなくてもゲームを楽しむことができます。一方、ヨットレースの場合は選手自身が審判となってルール違反を認定し、さらにはその正当性を「審問」という裁判の場で証明することが要求されるため、ルールブックを通読しておくことは必須となるのです。