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工学と人文科学、自然が融合したセーリング競技へのアプローチ 【We are Sailing!】

 現在、YAMAHA470チームのリーダーを務めているのは藤井茂(58歳)。役割はプロジェクトマネージャーですが、プロ野球でいえば監督とゼネラルマネージャーの中間のような存在です。
 この男、選手ではありませんがちょっと面白いプロフィールを持っているので、今回はこのチームリーダーを紹介しつつ、チームリーダーの役割について見ていきたいと思います。

工学部船舶工学科で学んだ造船理論

 北海道室蘭市に生まれた藤井少年は、この世代の男の子の大半がそうだったように、暗くなるまで白球を追いかける典型的な野球少年でした。進学した地元の高校でも野球部に入部して、3年間を高校球児として過ごしました。
 ヨットとの出会いは、一浪して入学した東京大学の運動会ヨット部(東大では体育会を運動会と呼びます)でした。
 「室蘭は港町でしたが、海というのは子供が近づいてはいけない危険な場所だという認識で、野球部のトレーニングで砂浜を走るのがせいぜいでした。その危険な海を『楽しむ』というスポーツがとても新鮮で、誘われるままにヨット部に入部しました」

 ヨット部ではスナイプ級という二人乗りのクラスに乗ることになった藤井はセーリングの爽快感に心を奪われ、野球で培った体力を生かして思い切りハイクアウト(艇の傾きを抑えるために艇外に身体を大きく乗り出す動作)することを覚えました。
 「他の大学の先輩たちから『東大の藤井のハイクアウトは関東一だ』なんて噂されているというのが耳に入って……。真偽のほどはわからないんですが、その気になっちゃったんですね(笑)。もう、大学の勉強そっちのけでヨットに打ち込む日々でした」

 東京大学では3年進学時に専攻を決める『進振り』という制度があります。原則として本人の希望で専攻を決めるのですが、人気の高い分野では2年までの成績順で割り振りが決まります。
 藤井が入学した理科Ⅰ類は大半の学生が工学部に進学しますが、藤井が選んだのは工学部の船舶工学科でした。造船技術を学んだり、水槽実験で船底形状による造波抵抗の違いを調べたりする、まさにヨット部の藤井にピッタリの専攻です。
 「ヨット部で船に興味があったということもありましたが、当時の工学部ではあまり人気のある学科ではなくて、運動部で勉強がおろそかになった学生が集まる場所でした(笑)。周りは野球部やラグビー部などの部員ばかりで、ヨット部も僕を含めて3人いました」

世界最高峰のヨットレース「アメリカズカップ」への道

 謙遜して述懐する藤井ですが、運動部で汗を流しながらも、実験や研究は高いレベルで行いつつ、藤井が選んだ卒業研究のテーマは『ヨットのウイングキールにおける抵抗特性』でした。ヨットにおけるキールとは、大型ヨットの船底から水中に突き出ている、錘が装填された横流れを防ぐためのボードです。
 藤井が東大ヨット部に入部する前年の1983年、アメリカのニューポートで行われた第26回アメリカズ・カップで、第1回大会から25連勝、130年間無敗だったアメリカがオーストラリアに負けるという、ヨット界の大事件が起きました。大会後になって陸揚げされ、お披露目となったオーストラリアのレース艇についていたキールは、これまでのヨットでは見たこともなかった羽を付けたような奇妙な形状をしており、人々を驚かせました。そしてこの新型のキールこそが勝利の要因であると報じられました。
 これが藤井の卒業研究の対象となった「ウイングキール」です。

 そして、藤井が学部を卒業した1989年頃、1992年大会を目指した日本初のアメリカズカップ・シンジケートとなるニッポンチャレンジが発足し、選手の公募(オーディション)が行われていました。東大工学部の船舶工学科というバックグラウンドを持つ藤井であれば、レース艇の開発技術スタッフの方に適性を見出しそうなものですが、藤井は選手としてオーディションを受けたのです。

「もちろんレース艇の開発にも興味はあったんですが、選手としてどこまで通用するのかという気持ちと、技術スタッフとセーラーとの橋渡し役が自分ならできるのかな、と」

ヤマハが建造したニッポンチャレンジのアメリカズカップ艇
(「キャプテンズワールド」誌/1990年より転載)

 ニッポンチャレンジのレース艇は、オフィシャルスポンサー、およびオフィシャルビルダーとなっていたヤマハ発動機の新居工場で建造されることになっていましたが、藤井はヤマハ発動機に入社し、そこからニッポンチャレンジに出向する形で選手としての活動が始まりました。
 ヨットレースの基本を身に着けつつ、船舶工学の深い知識を併せ持つ藤井は、チームマネージャーだったロイ・ディクソン(当時のスキッパー=艇長のクリス・ディクソンの父親)からの信頼も厚く、チームに貢献できているという手応えを感じながらのスタートでしたが、結果を求めたチームは主力メンバーをニュージーランド人で固めるという方針転換を行ったため、道半ばにして藤井は戦力外通告を受けることになります。
 「ちょっと人間不信になるほど落ち込んでいたところを、江口社長(当時のヤマハ発動機社長/ニッポンチャレンジ副会長)に励まされる形で、そのままヤマハにお世話になることにしました」

レヴズから再びセーリングの世界へ

 ヤマハ発動機でセーリングクルーザーの設計、プロダクション艇のレース艇へのカスタマイズ、世界大会で使用するための470級の特艤艇など、ヨットの開発に携わった藤井は、5年ほどしてモーターサイクル部門に異動。藤井が二輪車のタイヤの開発や操安性の研究などに携わっているうちに、ヤマハ発動機はヨットの製造から事実上撤退することになります。もうヨットの開発や設計に携わることはないだろうと感じていた藤井を、再びヨットの世界へと導いたのがヤマハセーリングチーム‘レヴズ’の結成でした。

 「2021年の東京大会までは、レース艇の設計・開発に携わる技術スタッフとしての立場でチームを見ていました。レース艇の開発も、選手の育成も、前に進んでいるという手応えは感じつつも、目標とする結果からは程遠いものになっていました」
 と、藤井は少し険しい表情で述懐してくれましたが、ここにセーリング競技の難しさがあります。同一条件でタイムを計測できるモータースポーツとは異なり、そのたびに変化する風や波の中で行うセーリング競技は、レース艇のパフォーマンスや選手の力量を100%客観的に評価することが不可能といえます。GPSなど様々なツール類が開発されている今日ですが、1時間セーリングした後に生まれる、距離にして僅か数十センチの差の正確な要因は、神のみぞ知る領域です。

藤井が関わった2021年までのプロジェクトにおける艇体開発初期段階でのタンクテスト

 「レース艇の形状一つとっても、タンクテストと呼ばれる水槽実験でわかるのは、平水面における直進状態だけです。実際のヨットは曲がったり止まったりしているわけですから、タンクテストの結果で理想的な形状が速いとは限らない」
 いきおい、その判断をレガッタの順位に求めることになるのですが、その相手のパフォーマンスも日々変化しており、その差が縮まっているのか、それとも開きつつあるのかすらも、客観的に評価することはなかなか困難なことなのです。
 「ヤマハ発動機のプロジェクトなのですから、レース艇の開発のみならず、様々な計測機器を駆使することで、そうしたセーリング・パフォーマンスを客観的に評価できるシステムの構築も視野には入れていたのですが、結局はそこまで手が回りませんでした」

時に空気を読まない“力”が必要となる

 東京大会後、高山大智/盛田冬華という新しいチームが発足し、藤井はそのプロジェクトマネージャーを任されることになりました。
 「セーリングのコーチに鈴木國央さん、フィジカルトレーナーに水野元晴さんと契約して、現場でのコーチングやケアについては彼らにお願いしています。さらに静岡ブルーレヴズ(ヤマハラグビー部を全身とするリーグワンのラグビーチーム)のエグゼクティブコーチをしている倉重知也さんにメンタル担当のコーチをお願いしています」

 プロジェクトマネージャーである藤井の役割は、現場のスタッフや選手たちがそれぞれの能力を存分に発揮できる環境を用意することと、スタッフと選手のコミュニケーションを良好に保つために働きかけることだと言います。
 「現場のコーチの考え方を最大限尊重して、自分はなるべく口を出さないようにしています。僕にできることはせいぜい情報提供だと考えているんですが、場合によっては、それすら余計なお節介となってしまうこともあるので、難しいですよね」
 と苦笑いしつつ、藤井は現場を取りまとめる立場の難しさを痛感しているようです。大学の工学部、メーカーの研究開発と、常に自然科学の分野で生きてきた“理系男子”の藤井にとって、人間関係の調整を行うという人文科学の分野は少々勝手が違う のかもしれません。
 それでも時々表出する、ちょっとばかり空気を読まない(笑)藤井の物言いは、選手やスタッフの間では「率直である」という形でむしろ好意的に受け止められていているように見えます。

「現場のコーチの考え方を最大限尊重して、自分はなるべく口を出さないように」(藤井茂)

 積み上げた努力の成果が結果として見えにくいセーリングという競技にあっては、なおさら帰納的に事実を積み上げていく手法でしか光明は見えてきません。そこは自然科学の世界で生きてきた藤井の得意とするところでしょう。空気を読んでばかりいては真理は求められません。
 謙虚を装いつつも、ちょっとKYな藤井のリーダーシップに期待です。

(文:松本和久/写真:添畑薫、瀧学、松本和久)


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