Sea-Style 「潮流と灯台と湊町(関門海峡)」【ヤマハマリンクラブ・シースタイル】
本州と九州を隔てる関門海峡。最も狭くなる早鞆瀬戸ではその幅は650メートル。船乗りにとっては古くから難所として知られ、両岸の下関と門司港は古来より本州と九州の往来を結ぶ要衝です。今回はこの海の難所と言われた関門海峡エリアを訪れました。
見どころの多い関門海峡
本州側から関門海峡に向かうと、まず目に入るのが関門橋です。本州と九州を結ぶ橋は自動車専用道路で、海峡のランドマーク的な存在。遠くからも見える、この関門橋が目の前に迫ってくると左舷前方には部埼≪ヘサキ≫灯台が見えてきます。今でこそ目立たなくなった灯台ですが、江戸幕府が開港に備えて建設した5基ある灯台のひとつで、面白い逸話が残っています。
周防灘側からの関門海峡の通過に際しては、古くからこの灯台のある部埼山が目印でしたが、複雑な地形と潮流によって数多くの船舶が遭難したそうです。その経緯を聞いた僧侶が、この部埼山に小庵を作って囲炉裏の火を炊き、船舶の往来を13年間見守りました。その後、この火炊きによって遭難を免れた船頭らが、新たに火炊き場を造り、住民らがそれを守り続け、1872年に完成した洋式灯台へと引き継がれたそうです。灯台に歴史ありとはこのことで、日中は景色に溶け込んでしまうほどの存在感ですが、船乗りにとっては人と船を繋ぐ大切な灯りであることは、今も昔も変わりありません。
歴史の海を船上から眺める
関門橋を越えると、左舷側に門司港が見えてきます。この港は大陸を結ぶ港街として明治初期から第二次世界大戦を迎えるまでは横浜や神戸と並び日本三大港のひとつに挙げられるほど発展してきました。特に明治政府から九州の石炭を扱う特別輸出港として指定されて以降、兵器や軍服、米など、主に大陸貿易による収益が大きく、港街の門司は料亭と花街で賑わいを見せたそうです。
その当時の建物を中心に門司の隆盛を現代に伝えているのが門司港レトロで、ボートからだと門司の街並みを眺めることはできませんが、その象徴とも言える、はね橋(ブルーウィングもじ)の開閉作業は、船上からの眺めが特等席となるので、時間を合わせて立ち寄りたいスポットです。
この門司港から10分ほどで着くのが船島、佐々木小次郎が名付けたと言われる通称『巌流島』です。この佐々木小次郎さえ実在していなかった、と言われるほど謎多き巌流島の決闘ですが、巌(岩)流の元となった岩礁は、島の周囲の造営時に埋め立てられ、その昔、難所として知られていた船戸島の周囲は船が安全に航行できるようになりました。
シースタイルのクラブ艇では桟橋への着岸ができませんが、船上からもこの巌流島の決闘のモニュメントを見ることができます。潮流の中で自らの操船で島に向かうことは武蔵や小次郎と同じような心持ちを体験できる貴重な時間、といったら大袈裟でしょうか。
この巌流島から引き返して下関(本州)側を見れば、フグの市場で有名な唐戸市場や水族館、関門橋をくぐれば壇ノ浦古戦場へと見どころが続きます。
ボートフィッシングは響灘へ
関門海峡のフィッシングゲレンデとしては響灘に繋がる海峡西側になります。これは東側のエリアに比べて六連島などの島が点在し、海底起伏もあるので魚たちが集まる条件が揃っているから。六連島から藍島までは底物から青物まで季節に応じた楽しみができるそうです。
ちなみにこの六連島にも部埼灯台と同じく兵庫港開港に合わせて灯台が設置され、初代の灯台守はイギリス人と言われ、現在は国内でも最古級の灯台です。また六連島の沖合には白州灯台があり、こちらは長浜浦の庄屋、岩松助左衛門が個人の私財を投じて着工するものの、建設は困難を極めて助左衛門が存命中には完成せず、その重要性から明治政府が事業を引き継いで完成に至ったという経緯のある灯台。部埼灯台や白州灯台の誕生の話を調べると、海上交通が物流の主流だった当時は、現在よりも海への関心が高かったことがうかがえます。その灯台守など海の先人たちによって航路が整い、私たちは水上の時間を安心して楽しむことができるのでしょう。
灯台あるところに難所あり。難所あるところ、ボートフィシングのポイントあり。関門海峡はさまざまな楽しみ方ができますが、船舶の往来も激しく安全には注意が必要です。
歴史散策のクルージング、水上から探す港街の魅力、四季折々のボートフィッシング。海峡で楽しむシースタイルは魅力の宝庫といえそうです。