世界遺産の島でひとり魚を追い続ける老漁師 【ニッポンの魚獲り】
九州本土の最南端・佐田岬の南方約60kmに浮かぶ屋久島。自然あふれるこの島の海を仕事場として、50年以上にわたって漁業を続けてきた岡留修巳さんは熟練の一本釣り漁師。日々、ひとりで沖に船を出し、狙った獲物を釣り上げています。
島で漁師として生きることを選んだ
鹿児島県・大隅諸島の屋久島は自然の宝庫。周囲130キロという島のほとんどは森林に覆われ、九州最高峰でもある標高1,936メートルの宮之浦岳を中心とした一帯は、世界自然遺産にも登録されています。
その山々からは多くの川が放射状に海へと流れ、河口部に集落を形成してきました。島の玄関口は北東に位置する宮之浦港。ここは世界遺産に登録された屋久島の自然を体感しようという観光客で賑わいを見せます。岡留さんが暮らす栗生集落は、その宮之浦とは山岳地帯を挟んだ島の西側にあります。
観光で賑わいを見せる屋久島とは無縁にも思えるとても静かな港ですが、かつては屋久島の中心地でした。カツオ漁が盛んで、良質な鰹節の産地としても知られていました。
昭和16年生まれの岡留さんは一時期(中学卒業後)、漁師だった父親とともに島を離れ、大阪に住んでいた時期がありました。父親とともに屋久島に戻ってきたのは昭和48年のこと。
「向こう(大阪)で、2トンのフネをヤマハで造ってもらい、親父と二人で大阪からそれに乗って屋久島に帰ってきたんです。小さな船だったけど、当時はFRPの船がまだ珍しかったものだから、みんな驚いていましたよ」(岡留さん)
最初の1年は父親とともに船に乗り込み、2年目には一回り大きな船を造って独立。現在の〈美紀丸〉は岡留さんにとって7隻目のヤマハ船です。
「そのころはとにかく魚がたくさん獲れました。毎日が大漁だった」と岡留さんが言えば、岡留さんの奥様のミサさんも「毎日のように人が家に集まってきて、飲んだり食べたりして、いつも賑やかでした。楽しかったわ」と、当時を愉快そうに懐かしみます。
もちろん魚という資源が豊富だったこともあります。しかし、岡留さんは毎日のように海図とにらみ合いながら漁を探求し、漁場を開拓、島でもトップクラスの水揚げを誇ってきました。岡留さんの研究心が育んできた技術、そして漁師としての優れた勘は、衰えることはありません。
潮の流れと海底の表情を読み切る職人技
岡留さんの一本釣りはタルメ(メダイ)、アカバラ(カンパチ)といった中型魚を狙うもの。狙う魚や漁場は、季節や、日毎の海や風のコンディションによって自在に変えていきます。取材したこの日はタルメを狙って、日の昇らぬうちに漁場を目指して船を走らせました。
「タルメの場合、冬は夜に操業します。夏は早朝から真昼までが勝負の時間」(岡留さん)
巡航で1時間もせずに漁場に到着。魚探で海底の様子を確かめると、餌となる冷凍イカを針につけ、船を潮に流しながら仕掛けを落としていきます。水深は140メートルから150メートル。その深さに仕掛けを落とし、なおかつ、潮の流れに乗ってここぞというポイントで魚に餌を食わせる。そして、いとも簡単に良型のタルメを次から次へと釣り上げていきます。それはまさに名人といえるものです。
漁を始めてから1時間ほどで10匹のタルメを釣り上げると「今日はこんなもんでいいだろう。釣れた場所には魚を残しておくぐらいがちょうどいい」と岡留さんは漁具を片付け始めます。
かつてはキロ3,000円から4,000円の値がついたタルメも「今はそれほどの高値はつかない」と岡留さん。カツオ漁と同じく、屋久島で盛んだったトビウオ漁、“首折れサバ”として名をはせたゴマサバ漁も、最盛期当時の面影はありません。また、現在島には船を修理する工場や鉄工所、航海計器の取扱店もなく、漁師が仕事をしていくには決して良い環境とはいえません。
それでも、豊穣の海は今も目の前に存在します。そして岡留さんは誇り高い、漁師としての生き方をこの屋久島で貫きます。
海を見つめる岡留さんの温厚な表情の中には、余裕のある、そして熟練した漁師の風格が漂っていました。
※2018年8月取材、制作した記事に加筆・修正して掲載しています。