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東京湾で見た、或る日の勇魚。 【Column- 潮気、のようなもの】

 のんびりボートを走らせていたら、遠くの波間に潮を吹く黒い影が見えた。
 「えー!? ここ、どこだっけ? 東京湾だよな。しかも羽田の沖だよ
 ボートの上には自分一人だけだったので、実際には声は出していないのだけど、とにかく驚いた。潮を吹き上げた黒い物体の正体は鯨=クジラであった。

 3月の暖かい土曜日に、釣りをしようと東京の湾奥にボートを走らせた。なあんて、さも日常的にボートで遊んでいるかのような書き方をしたけれど、忙しい日が続いていたこの日は、現実逃避と言った方がしっくりくる。遊ぶために海に出るのは久しぶりのことだった。「しょっちゅうボートで遊んでいます自慢」に加えて、くだらぬ「多忙自慢」をしているが、「エッセイの正体とは、自慢話をひけらかすことだ」と作家の井上ひさしさんが定義している。なので、そのままさりげなく自慢話を続けさせていただく。
 とにかく久しぶりで、しかも忙しい時期のただ中であったので、手っ取り早く、魚とのやり取りを味わうならそれなりに経験を積んでいるシーバスフィッシングが手っ取り早かろうと、東京の羽田の沖をうろついていたのである。
 午前中に馴れたポイントで、小ぶりだが元気のいいシーバスたちと遊んで、さて、次はどこに行こうかなんて、当てもなくボートを走らせ始めたら、クジラを目撃したのだ。

 潮の吹き上がった辺りの近くまでボートをゆっくりと走らせてみた。今度は背後からブッシュー、という潮を吹く音が聞こえた。振り返ってみたら黒い背中が見え、それが沈んだかと思うと、尾びれが現れ、そしてまた、海の中へと沈んでいった。そんなことがその後、3回ほど起きて、クジラは見えなくなった。わずか15分間ほどのできごとである。ひと言で表すなら、それは感動の時間だった。クジラの泳ぐ姿はスローモーションで見ているかのようだった。時間の感覚が麻痺する。そして、神々しいとさえ思えるその姿から、古来から日本で使われてきた勇魚いさなというクジラの呼び名を思い出した。

カメラを取り出す余裕がなくて、スマホで撮影

 感動すると同時に、いろいろと心配にもなってきた。土曜日だったせいか、走る船は少なかったように思えたが、平日になると頻繁に本船が行き来するエリアである。ぶつかって大型船のスクリューで傷つかないだろうかなどと、人のことよりクジラのことが心配になってくる。こんな浅いところにいていいのだろうか。この海域は、水深が30メートルもない。外海から迷い込んだのではあるまいか。

 クジラが優雅に泳ぐ姿を見ていたら、釣りをする気も失せ、早々とマリーナに戻り、このクジラについて再び考えることとした。そして、東京湾でクジラが頻繁に目撃されていることをニュースサイトで初めて知った。マウイ島でザトウクジラの取材したことがあるのだが、そのときに見たクジラの姿と重ね合わせ、とても似ているとは思っていた。まさかと思ったのだが、東京湾に現れているのは本当にザトウクジラらしい。
 ある海洋学の研究者のコメントも読んだ。それによると、東京湾にザトウクジラが現れたのは、どうやら異常気象など天変地異というほどの話ではないようで「個体数が増え、その生息域が広がっていると考えられる」というものだった。
 考えてみれば千葉の内房でも江戸時代には捕鯨組が存在していたので、ここにクジラが泳いでいても不思議はないかもしれない。でも、その時代、男たちが銛を手に追っていたのはツチクジラであった。遠い北の海からやってきたザトウクジラではなかった。

 北半球のザトウクジラは、夏は北極近くの海で餌を捕食し、冬になると繁殖行動のため暖かな海へとやってくる。日本では小笠原や沖縄周辺の海が繁殖地として良く知られるが、「ザトウクジラさん、本当にこの東京湾でいいんですか? 」と訊きたくなってくる。クジラ好きにとっては有り難い話ではあるけれど、やはり彼らの身の上が心配だ。夏にはちゃんと北の海へと帰ることができますように。祈るばかりである。

文と写真:田尻鉄男(たじり てつお)
学生時代に外洋ヨットに出会い、海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海に関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。



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