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日本の表、能登半島・輪島のこと〜被災された全ての皆様にお見舞い申し上げます。 【Column- 潮気、のようなもの】

 いわゆる“昭和”世代以外の方々には馴染みのない言葉かもしれないが、本州の日本海側の一帯が、「裏日本」といわれていた時期がある。対して、皇居があり、国の首都があり、工場や貿易港が多い太平洋側を「表日本」と言っていた。「裏日本」は、一般的な記事、天気予報などでも普通に使われていた言葉だが、今は新聞記者などが常用する用語辞典では、不快語のひとつとされており、メディアはもちろん、一般的にもほとんど使われることがなくなった。差別的な意図から生まれた言葉ではなかったにしろ、裏日本と呼ばれる地域に住んでいた人たちからすれば、確かに気に触る用語であったかもしれない。

 実際のところ、昨年の初夏、仕事で輪島を訪れたときに、そのことについて70代の、かつては漁師であったという男性に聞いたことがある。
「なんでこっちが裏なんだよ。輪島は表だろ」
 彼は、自身が子どもの頃からそう思っていた、とのことであった。

 不快に思われるかもしれぬと覚悟しながら、あえて本州を表裏に分けるとすれば、この元漁師さんが言うように、日本海側こそが日本の「表」であった時代があった。海や舟が好きで日本の舟運文化に興味のある読者の方にはおわかりだろうが、それを如実に物語るのが北国廻船ほっこくかいせんの存在だ。北前船きたまえぶねと呼ばれることの方が多いかもしれない。

 北海道と大阪を結ぶ北前船の航路は、江戸時代の中期から明治時代の初期にかけて急速に発展した。寄港地でさまざまな物資を売り買い、載せ替えながら往来していた北前船は、日本海側の多くの港町に繁栄をもたらした。
 日本海といえば荒波をイメージする“表日本”の方も多いだろうが、「季節風が強く吹く冬の一時期は荒れるけど、ほとんどの時期、日本海は太平洋よりもむしろ穏やか」と、元漁師さんは言っていた。
 北前船はそんな海を走り続けていたのである。

 輪島市の中心地から少し南にいくと黒島という集落がある(タイトル写真)。天領黒島とも呼ばれている。かつての北前船の船主と船乗りたちが住んでいた地域で、黒瓦の屋根と板塀の家が狭い路地に面して建ち並んでいる。その風情ある町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。拙子が訪れた際は、ひっそりとしていてとても静かだったが、その町のたたずまいの中にかつての繁栄を想像するのはとても楽しい試みだった。

天領黒島に保存されていた船問屋の角海家

 輪島は漁業も盛んだ。石川県の漁業の水揚げ高は輪島が第一位だ。巻き網、定置網、刺し網、釣り、潜水など、魚種・漁法は多岐にわたる。漁港はとても広く、港内にはおびただしい、多種多様の漁船がずらりとあった。有名な観光名所である「朝市」には、それらの漁船が獲ってきた、新鮮で美味い魚介を喰わせる店が並んでいた。朝市から少し離れた食堂で口にしたフグの漬け丼がとても美味かったことを思い出す。

 そして、この地で生まれた歴史ある漆器「輪島塗」は、北前船によって全国へと流通することとなり、一気に花開した。
 どこか荒々しさをイメージする船乗りや漁師、そして経済的発展の担い手となった商人たち、そして端正な芸術を生み出す職人が共存する町だったのだろう。

 漁船・漁法の多さからも察することができるように、ボートフィッシングファンにとってもターゲットは豊富で楽しそうだ。海図を開いてみると、とても複雑な海底地形を有していることがわかる。七ツ島、舳倉島などの島周り、デキノ瀬などの瀬が釣り場として魅力的であることを察するのは容易だった。

輪島漁港内に並んでいた漁船。輪島は漁法・魚種も豊富で、石川県トップの水揚げを誇る

 2024年1月1日に、その輪島を震源とする能登半島地震が発生し、ある新聞社のXのポストで輪島の港の様子を目にした。心が痛む。防波堤が海の手前に見えた。港内の海底が隆起したのだろうか。沖も同様だとしたら、船も迂闊に近づけない。これまでの海図は役に立たぬだろう。輪島の漁業が復活するのには、時間がかかりそうに思えた。

 能登半島の地形、集落の立地などが原因で、救援作業が難航していると耳にした。そして夏に金沢から輪島まで車を走らせたときのことを思い出してみた。失礼ながらそのとき、輪島を「陸の孤島」だと感じた。同時に、改めて、輪島は海から発展した町なのだということに思いが至ったのであった。

 黒島地区の代表艇な建造物で、幕末から明治期までの間、活躍した船問屋の角海家が倒壊している映像も目にした。海岸線の位置が夏に目にしたときよりも遠くにある。やはりここも海底が隆起したのだろうか。

“人間は負けるようには造られていないんだ”
ヘミングウェイが書いた「老人と海」(ヘミングウェイ)の主人公・サンチャゴの独白を思い出す。

 このタイミングで語るべきでないかもしれないと思いつつも、被災地となった輪島の姿の写真などを目にしながら、東日本大震災に遭った三陸の町々、また、唐突かもしれぬが、かつて戦争で破壊されながら美しい町並みを取り戻したクロアチアのドブロブニクのことなどを思い出した。なにより、輪島の黒島地区も、2007年の地震により、いちどは倒壊しているのだ。そして、いずれも、助け合いながら、人々は町と人生を復興させた。

美味い魚があり、美しい芸術がある。
輪島は再び訪れたいと思わされる魅力ある港町であった。
今、自分にできることを行いながらその時を待ちたい

 令和6年能登半島地震により亡くなられた方々に哀悼の意を表すと共に、被害に遭われたすべての地域、皆さまに心よりお見舞い申し上げ、復興をお祈りいたします。

文と写真:田尻鉄男(たじり てつお)
編集・文筆・写真業を営むフリーランス。学生時代に外洋ヨットに出会い、海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海とボートに関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。

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