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海とそこに暮らす人々との出会いが海への愛を深めていった 【社員紹介-私が海を愛する理由】

オートバイメーカーとして広く知られる私たちヤマハ発動機は、ボート、水上オートバイ、船外機(ボートの外付けエンジン)といった「海」に関する製品もつくっています。そして、その製品を開発し、製造し、お客様にお届けする社員には、海を愛してやまないメンバーが沢山います。
 「私が海を愛する理由」は、そんな彼らに、海をスキになったきっかけ、海での思い出、おすすめの楽しみ方、こだわりなど、”海への愛”をとことん語ってもらうシリーズです。社員一人ひとりの想いにのせて、みなさんとも海のすばらしさを共有できますように。

 今年65歳になった谷本一志さんが、スキューバを身につけて初めて潜ったのは、沖縄本島の西に連なる慶良間けらま諸島の海でした。今から20年ほど前、40歳を過ぎてからのことです。決して若い頃からダイビングを楽しんできたわけではありません。

 「漁船などの業務艇の営業で沖縄を担当していたときに、のっぴきならない付き合いで慶良間諸島の海に潜らなければならくなったんです。ダイビングのライセンスは持っていたけど、実を言うと “やれやれ、行きたくないな、面倒くさいな”なんて思いながら慶良間まで同行しました。ところが実際に潜ってみたら、慶良間の水中の世界の美しさに圧倒されました。衝撃を受けましたね

 色とりどりのサンゴ、その周りに群れをなして泳ぐたくさんの魚たち、そして何より感動したのは、衝撃的な美しい海の色。世界中の人々は、そんな海に出合うと、辞書にある既存の色の名で表現することを諦め、地名に「ブルー」をつけて名を残します。慶良間の海もいつの間にか同じように表現されるようになりました。

「これがいわゆる“ケラマブルー”なのか」

 慶良間の海中の世界を目の当たりにしたことで、谷本さんは、それまで抱いていた「海への想い」が変えられていったようです。

海に生きる人々の共通言語を知る

 谷本さんは、目の前に響灘ひびきなだを抱く福岡県北九州市の生まれです。海が間近にあった町に育ちましたが、子どもの頃は夏の海水浴程度の付き合いで、特別に海が好きだという自覚はなかったようです。ヤマハ発動機への入社は1981年。最初に配属されたのは熊本県天草の営業所で、漁船を中心とした業務船の開発と販売に携わることになります。

 「当時の会社の車にはラジオしか付いていませんでしたから、自分でラジカセ(乾電池でも使えるラジオとカセットテープの再生機、スピーカーが一体となったオーディオ機器です。念のため)を車に持ち込んで、好きな音楽を聴きながら営業に回っていました。山下達郎が好きで、RIDE ON TIME、SPARKLEとかよく聴いていました。SPARKLEはAメジャー7のカッティングで始まる曲ですけど、聞いたことないですか?」
 “夏だ、海だ、タツローだ! ” 好きな曲を聴きながら風光明媚な天草諸島の島々で車を走らせる。最高ですね。
 「でもね、実は1年後には会社を辞めたくなっていました。これでは続けられないと思ったのは“言葉の壁”が理由です。同じ九州育ちなのに、お客さんである漁師さんの言葉がまったく聞き取れずに、何を言っているのか分からないんですよ。上司に説得されて結局は踏ん張りましたけど」

 思わずそんなことが理由で?と聞いてしまいそうです。でも、社会人になりたての20代の営業マンにとって、お客さんとコミュニケーションが取れないことは深刻だったのでしょう。もちろん谷本さんに方言を差別する意図などありません。本人だって北九弁きたきゅうべんの使い手なのですから。ところが、現在こそ減ったかもしれませんが、同じ地方の人でも聞き取りにくい漁師や港町だけの独特の方言は「浜言葉」として、日本の津々浦々に存在するのです。

 谷本さんは入社してから今日に至るまで、漁船一筋。これまで13度の転勤を経験し、様々な海と、そこに暮らす漁師さん達と出会いました。そうした中で沖縄、そして北は青森・津軽の浜言葉にも触れ、そんな言葉を使う漁師さん達に対しても、海に対するのと同じく愛情が深まっていったことが、話しぶりからうかがえます。
 「長く漁業に関わる仕事をしながら気づいたことなんですが、単なる“言葉”ではない独特の共通言語のようなものが、漁師や海の世界にはあるような気がしています。北も南も関係ない。平たく言えば気持ちなんです。それは通じます」

サンゴの海を蘇らそうと奮闘する漁師との出会い

サンゴの海の再生が期待される恩納村の海。ボランティア達が県外からも参加し植え付けに参加している

 沖縄県の中部・西海岸にある恩納村おんなそんで、モズク養殖を営みながらサンゴの保全活動に取り組む銘苅めかる宗和さんと出会ったのは、沖縄の浜言葉にもすっかり馴染み、ケラマブルーを体験した後のことでした。

 「サンゴ礁はいわば海の森。魚の住処すみかでもあります。小さな魚が集まり、そこに中型の魚、それよりまた大きな魚が集まってくる。サンゴが無くなると、漁師は魚が獲れなくなるわけです。観光資源としている海人うみんちゅにとってもダメージがあります。銘苅さんたちは白化現象で死滅した恩納村のサンゴを蘇らせようと、1999年から活動していました。後世にサンゴのある美しい海を残そうと、漁港にサンゴの養殖施設を作り、海中にサンゴを植え付けて育て、サンゴの海を蘇らせようというものです。その活動に恩納村でリゾートホテルを経営していた全日空など県内外の企業、恩納村漁協が一体となって、2004年から“チームちゅらサンゴ”として、サンゴ復活への本格的な活動が始まりました」

 慶良間の海で、サンゴのある沖縄の海の美しさを目の当たりにし、また、海に生きる漁師さんたちをリスペクトしていた谷本さんも、この活動に加わりました。はじめは独りで熱くなっているようなところもあったかもしれません。それでも2008年からは、ヤマハ発動機として正式にチームに加わることになりました。

写真左:谷本さん。漁船の仕事に携わり43年の歳月が過ぎた
写真右:多くの社員がサンゴの植え付けに参加。それが嬉しいと谷本さんは話す

 「チームの関係者だけでなく、一般の人々から植え付けの作業に参加してもらえるのがこの活動の特徴で、ヤマハでも社員に対して声をかけ、年に2回のツアーを行っています。ここ数年間は感染症のこともあって休止していましたが、毎年20名ほどの社員が自費で参加しています。その広がりが嬉しいんです」

それでも、海に生きる決心をした人々

 40年以上にわたって漁船の開発・販売に携わってきた谷本さんにとって、もう一つ、忘れ得ぬ出来事がありました。それは2011年3月11日に発生した大地震と未曾有の震災です。この地震で東北地方と関東北部の漁業は、壊滅的な状況に追い込まれました。そして「復興のため、一刻も早く新しい船を漁業従事者に届けよう」と水産庁による共同利用漁船建造補助事業がスタートし、ヤマハはこの枠組みの中で2013年3月までに約4,900隻の製造を担いました。
 このとき、本社のある静岡県から、かつて赴任していたこともある東北地方に何度も足を運び、被災地で漁師さんたちと向き合っていた谷本さんは「地獄のようでした」と当時を振り返り、言葉を詰まらせます。

震災にあっても、海は恵みをもたらし続けている。
写真は岩手県大槌町のミズダコの水揚げ(2012年7月撮影)

 「財産ばかりか大切な人の命、あらゆる物を失い、中にはそのまま廃業する漁師さんもいました。それでも多くの漁師さん達は再び海で生きていくのだと奮い立ちました。その姿に、心を打たれました。また、あれだけの災害に晒されたのに、海はすぐに再生した。ウニや貝が生きていて、海藻が育ち、魚たちは泳いでいる。海の中では生命の営みが何事もなく続けられていた。そんな海を通して見た自然の力には素直に驚きました」

 驚くのほどの美しさを放ち、感動を与えてくれる。海で暮らす人々に文字通りの恵みを与えてくれる。そして失意から立ち上がろうとする人々に再生の希望を与えてくれた。谷本さんが海を愛する理由です。

(題字:谷本一志)

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