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【我ら、海洋民族-2】 激流の多島海に残した潮気-村上海賊 (後編)

 戦国時代に瀬戸内海の中心部・芸予諸島を拠点に力を振るった海賊・三島村上氏さんとうむらかみうじの最盛期といえば、やはり能島の村上武吉が総領となっていた時代といえるだろう。

 その時代、能島の村上武吉のほかに、来島くるしまには村上通康みちやすが、因島には村上吉充よしみつがそれぞれ城を構え、船を有し、力を奮った。
 今治市村上海賊ミュージアムの学芸員・松花菜摘さんによると「三家は互いに同族意識はありながらも、常に行動をともにしているわけではなく、敵対するところもあった」という。

 来島は四国からわずか240mほどの近距離に浮かぶ小島である。全周1kmにも満たない小さな島だが、今も20人ほどが島で暮らしているという。この島には、日本有数の造船所のドックがある四国側の波止浜はしはま港(今治市)から連絡船に乗って渡った。片道160円、わずか5分ほどの船旅だが、島に近づくと、ここも能島と同じく、激しい潮流で取り囲まれていることに気づかされる。

四国・今治の波止浜の港口に浮かぶ来島(手前)。沖の来島海峡は今も難所として位置づけられる
来島の港の目の前は潮が渦巻いていた。対岸の波止浜からも視認できるほどの潮流である

 村上吉充が本拠地としていた因島は、能島や来島とはかなり趣が異なる。島ではあるが、少なくとも孤島というイメージはない。因島村上氏は古くから本州側の大名との結びつきが強かった。

因島重井町(広島県尾道市)の港。村上吉充は青陰城をを本拠とする以前、
向島から因島に移って来た直後、最初に居城したのがこの丘の中腹にあった青木城だった 

因島と能島の違いについては、白石一郎の「海狼伝」に印象に残る一節がある。

同じ海賊大将ではあるが、能島や来島など小島に城をかまえる他の二家にくらべ、因島だけは所領が大きい。穀物や野菜にも恵まれている。しかも本州との距離が最もちかい。とくに小早川家の三原とは指呼の近さにある。

 さらにこう続く。

吉充と武吉には同じ海賊大将でも、その心がまえに微妙なちがいがあった。吉充にはおかの匂いがある。いま船団の中央にあって、ゆっくりと漕ぎ進んでくる大将船がそれである。
六十八挺立ての関船だ。安宅あたけ船と呼んでもおかしくない大きさである。村上吉充は大船を好む。その点、軽快な小船を愛し、巨船を嫌う武吉とは異なる。

 陸の匂い─。もちろんこれは白石一郎の主観と想像から生まれた表現だ。そして、村上武吉の容姿については次のように表現している。

村上武吉は一国の太守とも見まがう風貌だった。骨格たくましい長身で、鼻下と顎にひげをたくわえ、若い頃はさぞ見る者を畏怖させたろうと思える荒削りな顔だ。しかし五十の坂をこえた年輪のせいか、荒々しい印象は消えて、地位にふさわしい貫禄と、それなりの気品が身についている。眼の光はつよく、声はさすがに潮涸れていて、太い。

 見方によっては少し意地悪く吉充を貶めたように感じられるかもしれないが、村上武吉の“潮気”を強調したかった白石一郎の意図は理解したい。

 能島は本欄の前編でも書いたとおり、とても小さな島である。激しい潮流に洗われ、島自体が要塞といった体になっている。武吉はここに好んで住んだ。家族や家臣も。さぞかし不便だったと想像するが、それを意に介さず、おそらく船を草履代わりに気軽に使いながら小島での暮らしを選ぶ武吉に、我々が好感を持たないわけがない。

 能島の発掘調査では武家の儀式に使われた土器片などの他、漁労具も出土している。
 「自分たちで食べるためなのか、海賊たちは、平時には魚も獲っていたんですね」(今治市村上海賊ミュージアム/松花菜摘さん)
 嬉しくなるではないか。

村上武吉の城があった能島。下部に現在の上陸用の桟橋がみられるが、
当時は写真の左上部分が主要の船だまりだったようだ

 ところで、能島を「島自体が要塞」と表現したが、能島の特長はそれだけでは無いことを松花さんに教えられた。
 「確かに急流に囲まれていますが、潮流は時間によって止まるときもありますから。実は能島には防御だけでなく、むしろ海に向かって開かれた、機能的な側面があったんです」(松花さん)

 その機能性を示す遺跡の一つが“岩礁ピット”である。岩礁に穴が開けられ、その穴に木の支柱を立てた係船施設のことで、能島と鯛崎島を合わせ、約400もの岩礁ピットが確認されているという(来島などにも岩礁ピットの穴がある)。

 「岩礁ピットは岸から沖に向かって縦に並んでいます。潮の満ち引きによって使う支柱を変えていたのだと思われます。何かあればすぐに沖に船を出せるという機能的な船着き場があったんですね」(松花さん)

今治市村上海賊ミュージアムに展示されている岩礁ピットのジオラマ

 村上海賊の時代、軍船として使用されていたのは安宅船あたけぶね関船せきぶね小早船こはやぶねの三種類。
 安宅船はいわば大型船艦だ。船上全体に、大きなものでは三階建ての矢倉(ブリッジ)があり、防御のため船の周囲を盾板で覆っていた。ただし箱形の大型船は敏捷性に欠ける。それを少し解消したのが中型の関船である。
 関船は早船とも呼ばれていたが、それをさらに小型化したのが小早船だ。矢倉は無く、盾板も低く抑えられ、船型は細長く、船首部が鋭い。小型ではあるが、三船のなかではもっとも高速性能敏捷性に優れていた。

因島(広島県尾道市)の資料館「因島水軍城」に展示されている軍船の模型。
左から小早船、安宅船、関船
今治市村上海賊ミュージアムにある小早船の復元船。水切りがよく、速く、小回りがきく。
宮窪ではこれを使って競走する「水軍レース大会」が毎年7月に華やかに行われる

 話しは少しそれるが、このnoteのマガジン「潮気、のようなもの」で取り上げられていた真鶴の貴船祭りで使用されていたのが、関船である。貴船祭りで最初に使われた関船は江戸時代の末期に寄贈されたものだという。鎖国の間、江戸の後期になって商船の分野では北国廻船(北前船)として弁財船べざいせんが登場し、それなりの進化があったとはいえ、黒船が到来する頃に、江戸幕府は250年以上たっても軍船を新たに開発することなく、戦国時代に使用されていたのと同じタイプの船を備えていたということなのだろうか。だとすれば、江戸時代って、どれほど平和だったのだろう。

 閑話休題。引用した海狼伝のなかに“巨船を嫌う”とあったように、能島村上は、特に小早船を好んで使用していたとされている。何より海戦において、彼らが得意とした焙烙ほうろく(手榴弾のような火薬玉)による攻撃に威力を発揮した。第一次木津川口の戦いでも、小早船で安宅や関船が中心であった織田の水軍に壊滅的なダメージを与えている。
 「海狼伝」の中では小早船を中心に500隻もの船が能島の周りを取り囲み、大将(武吉)がひと声かければそれらがいつでも海に出られるようになっていたことが書かれている。訓練するシーンも書かれていた。
 こうしたシーンを想像することはたしかに胸躍るが、何度も繰り返すように、小説はフィクションである。元となる資料も後世に書かれたものが多いようだ。村上海賊が何隻の軍船を所有していて、どのように、どこで造っていたのか ─、それらの疑問に対する答えに、研究者である松花さんは慎重である。わかっていないことはそうと教えてくれる。実際のところ、謎は多いのだ。

大三島(愛媛県今治市)にある日本総鎮守と呼ばれる大山祇おおやまづみ神社。
海賊たちに信仰され、第一次木津川口の戦いの直前には
武吉や通総などの海賊の武将が連歌を詠み、奉納した

 でも、村上海賊の武将たちが海と島でいきいきと活躍していたことは確かである。孤島に暮らし、海を知り尽くし、船を自在に操り、海での戦いではほぼ負け知らず。それでいて風流を解し、ときどき漁もする。残された遺跡や資料からイメージする村上海賊、さらにそれを元に書かれた小説に登場する村上海賊は、とてもかっこ良く、海の仲間として愛さずにはいられない。

 「村上海賊の娘」を著した和田竜さんは少年期を広島で過ごしているが、家族旅行で因島を訪れた際、この辺りに海賊がいたことを父親から知らされ、子どもの頃から「海賊はカッコいい」と思っていた、とある対談の中で明かされている。
 また、白石一郎の海洋小説の原点には「日本人が海洋民族であることの誇りを取り戻したい」という思いがあることはよく知られている事実で、村上海賊はそのための題材に選ばれたのだ。

 日本のなかで「村上」という姓は愛媛県と広島県に突出して多い。もちろん、三島村上氏の末裔も現存はするが、実際にその家系であるという人はごくわずかであろう。それでもこの地域の海に生きた村上海賊はそれほど慕われ、また誇りにしたいと願わされ、その姓が使われたのだ。

※タイトルの写真:大島(愛媛県今治市)の亀老山きろうさんから望む来島海峡。海賊がいた時代はもちろん橋はなどなかった。

●文責:編集部
●取材協力:今治市村上海賊ミュージアム
(愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地/TEL: 0897-74-1065)
●主な参考文献
「増補改訂版〜瀬戸内海の海賊〜村上武吉の戦い」山内譲・著(新潮選書)
「海のサムライたち」「海狼伝」/白石一郎・著(文春文庫)
「村上海賊の娘」/和田竜・著(新潮社)
「ものと人間の文化史〜和船Ⅱ」/石井謙治・著(法政大学出版局)


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