いい引き波、悪い引き波。 【Column- 潮気、のようなもの】
「前だけを見ろ、後を振り返るな」
なんだかカッコいい気がするけれど、船の上では大きなお世話である。
私は船に乗るとき、特にゲストとして乗るときは、しょっちゅう後を振り返る。前を見ても水平線しか見えないクルージングの最中、振り返ると、何もないはずの海の上に、まるで「走り抜けてきた証である」とでも言いたげに航跡がみえる。美しい。大好きだ。それに船に弱い人は、それを眺めていれば、船酔い防止にもなる(かもしれない)。
航跡が造る波を航跡波という。以前は昭和に大活躍していた海の先輩方に習って、船舶用語の「ウェーキ」というカタカナ言葉(語源はもちろんWake)を当たり前に使っていたが、「ウェイクボード」という、引き波を利用して遊ぶ舶来のウォータースポーツが盛んになってくると、「ウェーキ」と書き、口にしてみても、何のことか理解してもらえない。若い編集者に赤字を入れられたりすることの方が多くなってきたような気がするので、最近では単に「引き波」または「曳き波」と書くことが多くなってきた。
さて、何かと感動を与えてくれる、見た目には美しい引き波だが、これが厄介者扱いされるシーンもある。私自身、引き波を憎むことがある。
引き波を立てずに走れないのか
たとえば、ある河川沿いのマリーナでのこと。帰港後、河川に面した桟橋で後かたづけをしていると、川上にあるマリーナを目指し、勢いよく沖を通り過ぎるボートがあった。やれやれ。
ゲストを乗せて、颯爽と、気持ちよさそうにボートを操船しているお方は気づかぬかもしれないが、桟橋ではけっこうなハプニングが起きるのである。桟橋にいたオーナーは身を挺してボートの船縁を掴み、船が桟橋に叩きつけられるのを防ぐ。一緒にいた子供は揺れる桟橋でよろめき、川に落ちそうになる。まだボートの上に残っていた奥方はあわてて何か掴むものを身近に探した。ハーバーマスターは沖ゆく船をにらみつける。怒鳴りつけたいところだが、トラブルになるので声は出さない。引き波を立てたボートは気づかないまま走り去る。
残念で悲しいことだけれども、よくある光景なのだ。係留していたのがボートだけだからまだ良い。たとえばヨットの場合、隣り合って停泊しているヨットのマスト同士がぶつかったり、舵が壊れたりすることもある。迷惑で危険きわまりない。
河川沿いの施設だからよくあるケースなのかもしれないが、普通の漁港などでも、そういったことはある。マリーナでは少ないと思う。自分の家ではゴミを捨てないのと同じなのかもしれない。
引き波を立てることがどんなに他人に迷惑をかけ、悲しい気持ちにさせ、危険な目に遭わせているかを、少しばかりの想像力を用いて考えるべきなのである。人は元来、自分勝手な生き物だが、それ故に、ルールやマナーというものを生みだし、互いに気持ちよく生きていけるよう工夫をする。
ボート免許の講習内容をベテランほど軽視する傾向はないだろうか。これは自動車でも同じことがいえると思うが、免許制度には意味がある。教わったことを守ることで、安全が確保でき、事故やトラブルの発生率が下がる。それらを忠実に守ることは格好悪いことでも何でもないし、キャプテンとしての責務であり、むしろ免許教室で教わったルールやマナーを守り続けることは尊敬に値する。
「港内徐行」と防波堤にあるのをよく見かけるが、徐行とは舵の効く最低限のスピードと考えればよい。港内、または運河などで岸に係留船があるときは一旦ボートを停止させ、そこから引き波を立てないように、さらに舵が効く最低限のスピードで航行する。「徐行」は2~3ノット以下でなければ意味がないことと気づくはずだ。それでも、波は起きるし、桟橋やそこに係留された船は揺れるのである。
他船が起こす引き波を予測するシーマンシップ
従って、狭い水路や、他船が係留しているようなエリアでは、引き波を受けると予測することも求められる。例に挙げた河川のマリーナの桟橋にいたボートの主人は、川下からやってくるボートを見つけたら、慌てずに子どもの手を取るか、安全なところに移動させるなどし、デッキにいる奥方には「波が立つから気をつけようか」と声をかける。これもまた「シーマンシップ」である。
なお、最後に使った「シーマンシップ」という言葉は、「船乗りが持つべき技術」を指すのであって、「我々はぁ、スポーツマンシップにのっとりぃ〜!」の選手宣誓が醸し出す根性や精神論的な「シップ」とは少し異なる。もちろん「船」のことではなく「羊」のことでもない。最近はこれも混同され、意味が通じないことが多い。
「ウェーキ」にも似た言葉の進化なのか。