ご機嫌な贈り物 【Column-潮気、のようなもの】
「海を見たことがなかった少年」は、フランス人の作家、ル・クレジオによる同名の短編集に収められた小説です。
彼は道を走り、砂の斜面をよじのぼってゆく、すると風はますますきつく吹いて、未知の響きと匂いとを運んできた。それから、彼は砂丘の天辺に達し、すると一挙に、それが見えた。
それはあった、いたるところ、目の前に、涯しなく、山の斜面のように膨れ上がり、その青い色を深く輝かせ、間近に、そして高い波、また波があって彼の方へ押し寄せてくる。
「海を見たことがなかった少年」
(著:ル・クレジオ/訳:豊崎光一、佐藤領時/集英社文庫)
初めて憧れの海をみた子ども
主人公のダニエルは、海の無い田舎町の貧しい家庭に暮らす少年です。無口でおとなしい少年で、いつも古びた赤い表紙の、シンドバッドの物語の本を手にしていました。そんなダニエルがある日、学校に来なくなり、家からも姿を消します。教師や大人たちは大騒ぎし、学校の子どもたちにダニエルがどこに行ったのか知らないか、と聞きます。子どもたちはみんな首を横に振るだけでしたが、本当はダニエルが海へ行ったことを知っていました。
引用したのは、ダニエルが憧れていた「海」に初めて出会ったシーンです。ダニエルはその後、海辺でひとり、数日を過ごします。磯で名前をつけたタコと戯れ、貝を捕ります。海の水の塩辛いことを知り、波や風の音を聞きました。
少しせつなくもある物語なのですが、それよりもダニエルが抱いていた海への憧憬、そして出会いを果たした後の海とのふれあい、その描写の美しさが勝ります。そして読んでいて、こんな場所、つまり海辺へ、ひとりでも多くの子どもたちを送り出してやりたいな、などと思います。
残念で少しばかり悔しい話ですが、最近の日本では、海から遠く離れていなくても、特別に貧しくなくとも、海で遊ばない子どもが増えているといったことが仲間うち、つまり海やボートのことを書いたり、写真を撮ったりすることを生業にしているオッサンたちの間で話題になります。もちろん、“日本人の誰もが海に近づかなくなったら、俺たちの商売あがったり”というのもあるのですが、とにかくその仲間たちは、掛け値無く海が好きなのです。だから、大人よりもよほど感受性に長けた子どもたちに、ダニエルが感じたような、素敵な海を体験して欲しいと心から願っている、というわけです。
楽しそうにボートに乗る子どもたち
北欧のノルウェーといえば、最も住みやすい国の上位にランキングされる国として知られています。国民一人当たりの所得は世界でもトップレベルにあるのだとか。教育レベルも高いと聞いていました。
そして何より、ボートの所有率が高い。古い資料からの概算ではあるけれど、ノルウェーは5〜6人に1隻の割合で、これはアメリカの20人に1隻のはるか上をいきます。日本は400人に1隻という割合です。
そのノルウェーを訪れたとき、日本では決して目にすることのない光景を目の当たりにして感動したことがあります。首都・オスロの南南東にあるアーレンダールという街の周辺の、森に囲まれた、静かで美しい海(といっても無数の島が入り組んでいる“運河”のようなところですが)で、子どもたちがエンジン付きのボートを自由に乗り回していたのです(ノルウェーでは9.9馬力以下のボートは免許不要)。それも1隻や2隻ではありません。どうやら放課後のようです。男子ばかりでなく、女子のグループもたくさん見かけます。運河を走っていると、次から次へとそんな子どもたちが操船するボートに出くわします。嬉しいのと同時に「ノルウェーには敵わん」という気持ちにもなります。
ボートを乗り回す子どもたちは“自由”といっても無秩序というわけではありません。みんなライフジャケットを身につけ、キルスイッチ(緊急時のエンジン停止装置)をきちんと装着しています。身を守る意識はみんな高いのです。航路標識を理解して航行ルールを守って走っています。桟橋などにボートを着けて上陸していく姿も見かけました。舫い結びなんてどうってことありません。当たり前にできます。大人も子どもも、海で、ボートという共通の乗り物を操る者たちで構成される同じ社会の一員なのです。
あまり好きな言葉ではないのですけど、ボート“偏差値”というものがあるのなら、私を含む日本の大人たちより高いが気がします。
アーレンダールを案内してくれた方に聞いた話によると、多くの子どもたちは進級や進学のお祝いにお爺ちゃんから9.9馬力付きのボートをプレゼントしてもらうのだそうです。なんて素敵な慣わしなのでしょう。ステレオタイプな表現ではありますが「さすがバイキングの末裔」のお国、ボート大国であります。
子どもたちが気軽にボートに乗るにはハードルの高い日本ですが、セーリング・ディンギー(小型ヨット)という、子どもが海を楽しむのにとっておきの乗り物があります。小さいながらもれっきとしたヨットに乗り込んで自分自身で舵を取り、風の力を利用して海の上を自在に走ることができるのは、なかなか魅力的だと思います。ヨットスクールに入ることにより、しっかりとした大人の指導者の下、操船技術だけでなく、基本的な海での航行ルールやマナーも身につくのでオススメです。
これを書いている3月のはじめ、多くの学校で卒業式が行われています。そして多くの子どもたちが4月から進級、進学することになります。
ボートをプレゼント、というわけにはいかなくとも、初めて海を見たときのダニエルような、かけがえのない“海の体験”をプレゼントしてあげられたらなあ、なんてことを考えてしまう日々です。
文と写真:田尻 鉄男(たじり てつお)
学生時代に外洋ヨットに出会い、本格的に海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海に関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。東京生まれ。