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楽しく自由に、夢見る66歳のヤマハ発動機 【Column-潮気、のようなもの】

 7月1日。きょうはヤマハ発動機の誕生日、創立記念日です。1955年に日本楽器株式会社(現・ヤマハ株式会社)から分離独立して、会社としての歩みをはじめました。

 新会社が最初に発売した製品は、空冷2ストローク125ccの「YA-1」というオートバイです。このオートバイは1953年に、当時日本楽器の社長だった川上源一さん(ヤマハ発動機のパパですね)が、木材資源の不足による楽器製造事業の行く末を案じて、開発を命じたことにより生まれました。

 では、なぜ楽器の代わりがオートバイだったのか。その背景には諸説あるようで、本当の理由は川上源一さんに聞いてみないとわかりません。わかるのは、1953年当時、日本には200以上ものオートバイメーカーがあって、そのなかでもヤマハ発動機は最後発メーカーだったこと。それにも関わらず、1年ほどの開発期間で世界最高のオートバイを造り上げろと命じられた技術者たちがいたこと。そしてその技術者たちが大いに燃えて仕事に取り組んだということです。

 単なる思いつきではないかと疑いたくなるヤマハ発動機のパパ・川上源一さんの「発動」(いちおうダジャレです)は、このオートバイ開発に限りません。近頃では、いわゆる「無茶振り」といわれそうですが、この無茶振りと、それを技術者たちが楽しんで受け入れる状態は、少しばかり続きます。そのうち無茶振りされなくても、自発的に無茶を楽しむ社員が表れ始め、「面白そうならとにかくやってみよう」といった、いわゆる「自由闊達な企業風土」ができあがっていったのだと、第三者の私からは、そう見えます。

製品開発への“無茶振り”を楽しむ人たち

 ヤマハ発動機からマリン製品として最初に登場したのは、1960年に発売された「P-7」という船外機です。アメリカに視察するうちに出会ったヨットを浜名湖に浮かべてご機嫌だったパパですが、故障続きのエンジンには嫌気がさしていました。そして「それなら壊れないエンジンをつくってやろう」と閃いたのが、船外機開発のきっかけだったとされています。
 そしてパパお得意の無茶振りが発動されます。船外機など見たこともなかった技術者たちは、アメリカ製の船外機の現物をいくつか買い集め、それらの実物と、なんと取扱説明書だけを資料に開発をスタートさせました。開発のスタートはオートバイと同じく1953年。発売までになんと7年の歳月がかかっています。それでも「P-7」は決して優れた船外機とはいえなかったそうです。

 筆者は、初期のヤマハ船外機のクレームに対応していたサービス営業(テクニシャン)の担当者に話を聞いたことがあります。「とにかくクレームが多かった。故障してその日の仕事ができなくなった漁師さんが“こんなガラクタ使えるか”と私の目の前で船外機を海に投げ捨てたことがありました。実は私自身、気性の激しい漁師さんから海に突き飛ばされたことがあります」と告白してくれました。
 今なら違法投棄だ、傷害罪だと騒がれるかもしれません。でも件のサービス営業マンは笑顔で、愉快そうにそんなエピソードを語ってくれました。おそらく、本当に楽しかったのでしょう。そしてその失敗が、成功につながっていったことを知っているからなのだと思います。

未来の乗り物を夢見る

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 もちろん、ヤマハ発動機のモノづくりの歴史の中には、次につながったのか、ただの失敗作だったのか、すぐにはよくわからないモノもあります。その中で筆者が愛してやまない製品のひとつに「ソーサー(SAUCER-14)」というボートがあります。文字通り、「受け皿」を意味する円形のボートです。中央に船外機を配置し、それを中心に乗員が全員向き合って座ることができる楽しげなボートです。古いヤマハの社内報を見ると「水の上でどちらの方向へも移動出来て安定が良く それがキャンプにスウィミングベースに 釣りに 夕涼みのパーティーに大いに活用できる(原文ママ)」とあって、1961年の内示会で発表したことが記されていました。ところが、このボートはこんなに楽しそうであるにもかかわらず、その後、日の目を見ていません。「くるくる回っちゃってまっすぐに走れない。しかも、せっかくみんなで向き合って乗っているのに、まん中に配置したエンジンの音があまりにもうるさかったから会話もできない」のだそうです。この話も当時の開発者たちが、人ごとのように愉快に笑いながら教えてくれたエピソードです。いやいや、自由すぎます!
 でもこのボートのコンセプトって、今もアメリカで大人気の「ポンツーンボート」とそっくりですよね。

 数年ほど前、ヤマハ発動機のある若い技術者にインタビューする機会があり、入社の動機を聞いたことがあります。彼は学生時代、ふとしたことがきっかけで手にした「あるボートデザイナーの軌跡」という本を読み、その内容に衝撃を受けたのだといいます。
こんな自由で楽しい発想でモノづくりができるなんて、なんて夢のある会社なんだろうと思いました。研究を重ねて試作した、さまざまな乗り物の開発ストーリーが書いてあるんですが、最後に“残念ながら商品化には至らなかった”なんて平然と書いているんです(笑)
 彼が感銘を受けたというこの本に出てくる、要するに“自由な発想で試作したけど商品化に至らなかった”もののひとつに「OU-32」という、これまた楽しげな乗り物があります。
「OU-32」はプライベートで楽しむ全長4.8メートルの小型水中翼船です。流線型のキャノピーに覆われた特徴的なスタイリングは、かつて子どもたちがアニメで目にした未来の乗り物のよう。二本の脚で浮き上がるようにして水上を走るのです。こんなボートをヤマハ発動機という会社は、30年も前に試作し、あわよくば売り出そうとしていたわけです。 「あるボートデザイナー」とは故・堀内浩太郎さん。堀内さんはヤマハがボート事業を立ち上げたときからボートの開発・設計に関わり続けた、業界では知らぬ者のいないレジェンドです。

これからも引き継がれるDNA

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 写真は2019年に倉庫に眠っていた「OU-32」をレストアしたものです。
「ボートの“快適性向上”をテーマに過去の水中翼船を復元し研究することで、水上を走る乗り物の、乗り心地の向上、燃費の大幅な改善、ボートに乗ることの新たな悦びの提供につなげていくという目的は、実は後づけで。実際に倉庫で見たとき、ぜひ自分も乗ってみたいと思った。そしてボートの開発に携わる若い社員たちにも乗って欲しかった。それが本当の動機ですね」(レストアに携わったスタッフのひとり)
 この発想は、当時の堀内浩太郎さんや一緒に開発に携わった人たちと、なんら変わりがありません。
 先日、イタリアの水上都市・ベネチアに小型の電動水中翼船が就航した、という記事をネットで見かけました。ボートの引き波が起こす建物の壁の浸食を改善する目的で導入されたとのことです。もちろん、「OU-32」が最新の電動水中翼船の開発に寄与したとは思いませんが、「ソーサー」にしても「OU-32」にしても、自由な発想と行動力に満ちた、開発者たちの先見の明に思いを至らさずにはいられません。

 ヤマハ発動機は66歳になりました。流れる血は入れ替わり続けていますが「面白そうだからやってみよう」「挑戦してみよう」といったDNAは変わることがありません。今も会社のどこかで、“自由すぎるチャレンジ”があれこれ行われているはずです。

 お誕生日おめでとうございます。

田尻 鉄男(たじり てつお)
学生時代に外洋ヨットに出会い、本格的に海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海に関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。東京生まれ。

ヤマハボート


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