航海者たちの心を妖しい歌声で奪う。 【キャビンの棚】
本欄でドビュッシーの「海」を取り上げたことがありますが、今回は「海」と並び称される傑作「夜想曲」について触れてみます。
世紀末の1899年に作曲された「夜想曲」は、ドビュッシーがモネ、セザンヌ、ルノワールらフランス印象派の影響を受け、マラルメの詩に寄せた「牧神の午後への前奏曲」によって確立された管弦楽法を、さらに完成させた作品です。これによって印象主義音楽が確立された記念碑的な作品でもあります。
「それは不動の空を雲が緩く、憂鬱に動いていく光景であって、柔らかな白色にぼかされた灰色の黄昏となって終る」(石田一志訳)
それはよくターナーの絵に見られる雲に比較されます。あらゆる色彩を含みながら、輝きを吸収し尽したグレー、かつ輪郭がおぼろな雲は、はかなく黄昏の空に消えていきます。
雲のようにただよう感覚の愉悦の深さには、深淵への墜落に対する不安が隠されています。日本の詩人が描いた雲の湧く、明るい大空の闇の中へ。ドビュッシーが与えてくれる愉悦の深さの中には、いつもそれがあります。それでも「海」には底知れぬ深海の闇への恐れがあり、波の常に崩れ定まることのない形への不安があるのです。
第三曲の“シレーヌ”も、危険な愉悦に満ちています。その妖しい歌声で航海する舟人たちの心を奪い、海深くへ引きずり込んだといわれる人魚、シレーヌ。波を表現するハープと弦によるトレモロにからみつく女性コーラスはメロディーらしきものも歌詞も持たず、それでいて甘美な歌声は、心を恐怖へと誘います。
第二曲の“祭り”は、他の2曲に比べて色彩に満ちています。リズム感あふれる祭りの印象。様々に着飾った人々の行列が近づき、祭りのきらめきの中に溶け入っていく。やがて祭りは最高潮に達し、そして静かに終ります。夜の闇だけが残る喪失感はただ深い。
「夜想曲」はこれまでに数多くのディスクが発表されています。ミンシュ盤、テイルソン・トーマス盤、アシュケナージ盤は“海”とのカップリング。写真のピエール・ブーレーズ盤は「海」の他、「イベリア」も収められています。