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近いようで遠くて、遠いようで近い。 【Column- 潮気、のようなもの】

文と写真:田尻鉄男(たじり てつお)
編集・文筆・写真業を営むフリーランス。学生時代に外洋ヨットに出会い、海と付き合うことになった。これまで日本の全都道府県、世界50カ国・地域の水辺を取材。マリンレジャーや漁業など、海とボートに関わる取材、撮影、執筆を行ってきた。
※タイトルの写真はボートのある真鶴の港。ある日に大西洋の島で見た風景に少し似ていて気に入っている

 埼玉県西部地区にある、拙子の自宅兼仕事場の最寄りのインターチェンジから高速道路を使うと、神奈川県の茅ヶ崎ちがさき海岸まで1時間あまりで到着する。もともと海の近くに住んでいる人にとっては「それがどうした」という話かもしれないけれど、海無し県・埼玉、しかも西部地区の県民にとって、圏央道が八王子の先まで延びて、新西湘せいしょうバイパスと繋がったときは、海がぐっと身近になった感があって喜んだ。 
 2015年頃の話だ。当時、家の近くの大型釣具店に入って釣り具を物色していたら、「もう海なし県とは呼ばせない」なんて書いたPOPがルアーコーナーの商品棚に揺れていた事を思い出す。埼玉県民として少し恥ずかしい気もしたが、正直なインパクトがあった。海が好きでいつも海辺にいたいけれど、いろいろな事情があって埼玉県に居住している人々にとって、あの道路の開通は、それほど浮かれ、喜ぶほどの出来事だったのである。たぶん。

 一方で、拙子は「日本列島、どこにいても沿岸部」という信条を持つ。有識者にインタビューしたときに聞いて以降、それをそのまま、さも自分の言葉のように使い、書き、話している。
 「地球儀で日本を見てごらんなさい。どこにいたって、海なんてあっという間なんです。日本人はみんな沿岸に住んでいるんですよ」とその有識者は言ったものだが、確かにその通りだと大きく頷いたのだった。だから、「千葉には海があるが、埼玉や群馬にはないだろうが」などといった、狭い日本におけるその類い論争は下らぬと思っていて、沖縄にだって日帰りで行ったことのある身からすれば、どうでもいい。
 そのはずなのに、やはりどこか負け惜しみ感もある。いや、負けたなどとは決して思っていないのだが、やはり「海の近くに暮らしたい」との、埼玉県民の密かな願望は何年もくすぶり続けていたのである。

海の近くに“隠れ家”を整えた

 2年前、神奈川県の西の外れの町の海の近くに格安の家賃で小さな家を借りた。夏の間は賑やかな海水浴場となる浜辺まで、歩いて3分ほどの距離である。
 そして今年になって、これまた小さなボートを中古で手に入れた。ボートはその家から車に乗って5分ほどで行けるマリーナに預かってもらっている。運にも恵まれた。いわば「別荘とボート」という、絵に描いたような裕福そうなライフスタイルを、庶民としてミニマムサイズのレベルで実現してみたわけだ。自慢したい。
 赤裸々な話ではあるが、このライフスタイルの基盤となる隠れ家の家賃とマリーナの保管料の合計額は、都内で仕事場として事務所を借りるよりも、よほど安い(実際に迷った)。ボートにしたってちょっとオシャレな軽自動車の新車を買うよりも安い。これまで「ボートは決して金持ちの遊びではない」と偉そうにあちこちで書き散らかしてきたわけだが、自分がそれを実現ないでいたことから、その根拠に自信を失いかけていた。そして今は、やればできるじゃないか、と思っている。やはりボートは金持ちだけの遊びではない。

海の近くにるというだけで、幸せな気分

 最小限の撮影機材とパソコンといった仕事道具一式を抱えて、月に2、3度のペースで訪れる海辺の家は快適で、滞在中は幸せな気分になれる。眠りにつく静かな夜、散歩をせがまれ犬に起こされる朝、窓を開けると遠くに波の音が聞こえる。愛犬と一緒に、人の殆どいない浜辺をゆっくりと歩く。近くには地魚を食わせる食堂や鮮魚店も多い。料理もする。
 そして購入をかなり以前から約束していたボートがいよいよ自分のものとなったとき、ボートにつける名前をあれこれ考えた。その作業も予想通りに楽しく、大いに幸せを感じられる時間だった。

海に出る時間を作らなくては、と思う

 ただ、予想と異なった、というか甘かった、と思わされる事実もあった。ボートに乗る時間がほとんど取れないのである。特に仕事が忙しくなる夏は。正直にいうと、疲れてしまい、暇があるならゴロゴロしていたい、なんてこともある。
 レンタルボートを利用した場合とコストを比較するという暴挙、というか恥ずべき事をしてみたところ、わかってはいたことだが、前者の方はなかなか割安である。シースタイルとは、とんでもなくお得なシステムなんだと気づく。
 さらに、艤装やメンテナンスなど、さまざまな作業=労働をレンタルボートを利用していた時とは比べものにならないほど伴う。

 そこでまた、ボートを所有していないのにも関わらず、偉そうに書いたあるコラムのことを思い出した。ボートやヨットというのは労働を楽しむ遊びである、という話である。「近くて遠い海」というタイトルをつけたコラムだ。一部を要約してみる。

オーストラリアやアメリカなどでは海辺のあちこちにボートを降ろすことができる公共のスロープがある。道路も家も広い。だからボーティングが普及している。うらやましい、と人は言う。だが、日本でも同じようなインフラが整ったからといって、同じようにボート遊びをする者がどれほどいるのだろうか。家のガレージからボートを引っ張り出し、トレーラーで海辺まで行き、ボートを水に浮かべて車をパーキングエリアに移動し、また戻って出航する。帰りも同じ作業をして、さらにボートを洗って、運転して家まで帰る。けっこうな労働を伴うのである。
元々、ボートという遊びは(ヨットやジェットだって)パワーが要る。素敵な海で素敵な体験を享受しようと思えば、ちょっとした苦労を厭わないバイタリティーが必要なのかもしれない。欧米のボーターやセイラーとは、インフラではなく、遊びに対する意気込みといおうか、その辺りが根本的に多くの日本人と異なっているような気もする。

 トレーラーボートではなく、マリーナにボートを置いてあっても同様かもしれない。拙子がボートを手に入れてから、実際にどれだけ自分のボートで海に出たかを考えると、それほど海が好きではないのかもしれぬ、などと情けなく、不安にもなる。
 それでも、やはり、海には出たいと切望はしている。

 今度は、ヤマハ発動機がこのnote「海の時間です。」を開設したときに載った「はじめまして」の一文を思い出した。

フネという乗り物はときに過酷です。そもそもクルマや飛行機に比べてこれほど不快な乗り物はないかも知れません。波に叩かれます。揺れます。冷たい風に凍えます。夏には汗をかきます。日焼けします。それでもなぜか、人は7000年の歴史の中で、フネで走ることを遊びに変えていきました。さらにフネや海は、美術や音楽の創作、文学にもインスピレーションを与え続けてきました。それは、海の向こうには、さまざまな困難にあっても得ることのできる希望や夢、歓びを得られるからにほかならないと、わたしたちは信じています。

 なかなかカッコいいことが書いてあるじゃないか。拙子は大いに同意する。

苦労して海に出て感じたいこと

 ある程度の労働を経て、もやいを解き放ち、沖に出たときの喜びの大きさを知っている。鳥や魚、時に舟の傍らを泳ぐイルカや突如として現れるクジラとの出会いに感動する。釣りは大好きだ。「老人と海」の主人公に憧れ、彼を真似て鳥や魚に話かけたりする。
 明け方にはハービー・ハンコックの処女航海を思い出し、日が昇ってからはサザンオールスターズの歌を口ずさみ、帰港する頃はビーチボーイズを頭のなかに流す。うだるような暑さの中、アンカリング(錨を打つこと)してボートから海に飛び込みたい。氷がぎっしりつまったクーラーボックスの中からギンギンに冷えた飲み物を掘り起こしてボートの上で飲むのが好きだ。ときどき、かき氷機を持ち込んでつくって食べる。
 南風が強まってくる真夏の午後、少し荒れ気味の波の中を緊張しながら走るのもいい。

マイボートで釣ったファーストフィッシュ。美しさに感嘆しながら罪悪感にも似た感情がわく。
「老人と海」の中にも出てくる「Dolphin fish」はこのシイラのこと

 それらは「希望や夢」というほどのものではない。欲しいのは 特に「歓び」の部分だ。言い換えれば快楽。海に出て、特別な快楽を享受したい。頭の中ではそのための苦労は厭わないことになっている。
 とにかく、ここにいる埼玉県民は、すぐにでもそれらを享受することのできる物的環境を整えた。目下の課題は時間の使い方である。

 海は近い。

■ヤマハ発動機とnoteのコラボ特集「#わたしと海」(https://note.com/topic/feature )もぜひご覧ください。


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