海抜ゼロメートルの平安。 【Column-潮気、のようなもの】
標高3810メートルに水を湛える、“天空の海”から、リマに戻ってきたときは正直いってほっとした。チチカカ湖は興味を引かれるものでいっぱいの、素敵なところであったけれど、何かに気兼ねしているかのように行動しなければならなかった。話すときも歩くときも静かに振る舞っていた。そうしていないと、体調に異変をきたしかねない空気に包まれていた。
ペルーの首都・リマの南方250kmほどにパラカスという町がある。リマから車でやってきて、海辺のホテルに投宿したときは、我が家に帰ってきたときのような気分がした。
風の町から鳥獣たちに会いに行く
パラカスは土地の多くを砂漠が占める、ペルーのイカ県に属する海辺の町である。観光には少し季節外れだったようだ。夏は曇りの日が多く、実際に天気は変わりやすく、午後になると強い風が吹き出す。この季節風(貿易風)をペルーの人はパラカスと名付けた。この町の名の由来である。
目指すバジェスタスへは1隻のボートと2隻のウェーブランナー(水上オートバイ)で向かった。観光船や漁船が集まる賑やかなエル・チャコではなく、ホテルのビーチにあるジェティにチャーターしたボートが迎えに来てくれた。目指したのは、「リトル・ガラパゴス」との異名を持つ、バジェスタス島だ。国立自然保護区ともなっているエリアだが、特別に許可を得て、この島々をクルージングすることとなったのだ。
午後から吹く風を避け、早朝に出航したクルージングは快適だった。ボートは海を滑るように走って島を目指した。途中に見えた地上絵は圧巻で、見る者を大いに満足させた。
我々を待ち構えていたバジェスタスの佇まいは少し異様に見えた。浸食によって島の横腹にできたトンネルは、大きな口を開けて我々を海の迷宮へと引きずり込もうとしているかのようだ。白い岩肌には黒いギザギザした突出物があって斑模様を作っていた。よく見ると、白く見えたのは鳥の排泄物であり、黒い突出物はおびただしい数の鳥であった。
沖にイワシの群れでも浮上してきたのか、鳥たちがざわめき出し飛び立った。今度は空に黒い斑ができ上がった。やや低いところにある岩には、狭いスペースになんとか身の置き場所を見つけたアシカ(オタリア)が窮屈そうに寝そべり、うさんくさそうな表情でこちらを見つめていた。観光船はまだやってきておらず、島の周囲にいるのは我々がチャーターしたボートだけだ。
乗り物がなければ何もできない侵入者
バジェスタスから、さらに沖合に浮かぶアシカのサンクチュアリまで脚を伸ばした。島に近づくと、砂浜が黒っぽく見えたのは、砂浜がアシカで埋め尽くされていたことが理由であることに気づいた。けたたましいアシカの咆哮が響き、海の上には獣特有の強烈な匂いが流れてくる。
時おり、好奇心旺盛な小さなアシカがボートの周りにやってくる。日本の海で獣に出会うことにそれほど馴れていない私たちは、無邪気に歓声をあげたが、向こうからしたらどんな気持ちなのだろう。傲慢な私たちはこれを可愛らしいと思うが、実はヘンテコな乗り物にでも乗らないと海を渡って来ることができない二本足の動物が、大勢のアシカたちの好奇の目にさらされているだけのことなのかもしれない。
それでも、砂浜をアシカたちが埋め尽くすその光景には、やはり心躍らされた。
沖では頻繁に鳥山が立っていた。体重が300キロを超える食欲旺盛なアシカにとって、すぐ近くに餌をとる場所がある。
パラカス(貿易風)は南の冷たい海流を北へと押し上げる。そこに豊饒の海が生まれる。緑がかった海の色は動物プランクトンの他に豊富な植物プランクトンが混ざり合ってできた。そこに魚が集まる。さらに大きな魚や、アシカやイルカをはじめとする肉食系の動物が集まる。そして200種を超える鳥が翔んでくる。
この海では漁業も盛んである。パラカスの中心部にある船着き場のエル・チャコには、無数のカラフルな漁船が舫われていた。我々のように自然を目で見て楽しむ者、この海で漁をしながら生きる人々、同じく魚を捕らえて生きる鳥獣類。いずれも自然の恩恵を受けていることには変わりない。ただ、人が鳥獣と違うのは、そのバランスを調整する務めを託されていることだ。
世界の人々がいま、南太平洋の小さな、それでいて偉大な自然を保全しようと腐心している。その一員となったような気がして、その思いを日本に帰っても持ち続けたいと願った。